面倒くさい奴と思われたもん勝ちなところも世の中にはある
小学二年生の時の通知表の備考欄のところにこう書かれたことがある。
「先生の揚げ足を取って困らせないようにしましょう」
勿論、親には手拳で殴打され性根を入れられた。
「いらんこと書きやがってこの糞野郎が」
とまで当時の自分が思ったかどうかは記憶にないが、おそらくそれくらいの感情は余裕で持つだけの反抗心は持っていたような記憶はある。
それでもめげずにコツコツ且つ的確に先生の揚げ足を取り続けた、向こうからしたら忌ま忌ましい糞餓鬼であった自分も、今やその忌々しさにも研きがかかってきて、グラデーション的に、寧ろ清々しさすら漂わせるに至ったことに、ある種の到達感を覚える。
もしもあの時、備考欄に憤慨した親にシメられた時にひよってしまって従順な優等生にでもなっていたら、今の自分はなかったことだろう。
これまで色んな世界の人間の揚げ足を何十年も取り続けたことは自分にとっては大きな功績である。
お陰さまでコイツは面倒くさいと、各方面の方々に思っていただいたことによる恩恵は計り知れない。
今の自分の自由があるのは、この面倒くさい奴という称号があればこそのものだ。
他人に好かれて窮屈になるよりも、他人に嫌われてでも自由が欲しいね。
我が儘だとか自己中だとか思われたとしても、図太い神経と分厚い面の皮を有する自分にはあまり影響はない。
何処吹く風とばかりに飄々とするばかりだ。
それでも自分が繊細でいて妖精のようなピュアなハートも一面では持ち合わせていることも疑いの余地はない。
昨日、友人達との会話のなかに
「自分の魅せ方」
という言葉が出てきた。
これはすごく大事なことだと思う。
こう立ち回れば、こういう結果が出るだろうと、予測し役者となって演技をすることで望む状況を手に入れる。
妖精のようなピュアなハートを守る為には演技というバリケードが必要だ。
ノーガードで相手の懷に入り込むのはチャンスと見た時だけで充分だ。
それ以外の時は常に演技をし続けるよ、危ないから。
面倒くさい奴と思われるのを心底望んでいるほどひねくれてはいないつもりだが、そう思わせたほうのがなにかと都合が良いのは紛れもない事実だ。
目的に達するまでには手段を選んでいる余裕はない。綺麗事はこの世の中では無力である。
理想は余裕のある奴が食える甘い果実だ。
その甘い果実を食うためには修羅場をくぐらなければならない。
修羅場なくして理想なし。
と、こういう結論に至ってからもう何年経ったことか。
我ながらよく好んで自ら修羅場をつくりだしたものだとその勇気を誉めてやりたい。
ところで実利のないヒーローごっこでは飯が食えないので、そういうのは自分の持ち場ではないと解し、できることならば一流の悪役として存在したいと考えている。
自分が貰ったものは惜しみ無く分け与えたいと思うけれど、その分け与えるものがなければ、そんな理想は成り立たない。
揚げ足取りで自分の右に出るものはまだ見たことがない。
このジャンルは一般的に格好の良いものとの認識がなされていない分、競争率は低い。
あえて競争率の高いジャンルで名を売ろうとするとすこぶる骨が折れる。
ユダヤ人は金融業という当時は忌み嫌われていた職業を押し付けられた結果、今や世界の金融の中心的役割を担っているという話をなんかの本で読んだことがある。
人生は何がどう転ぶか分からない。
自分の能力がたとえ世間一般に誉められるものじゃなかったとしてもチャンスはある。
降りかかる火の粉の揚げ足を取って災い転じて福となす。
この生き方を今さら変える気にはならない。
だって結果的に得するしなんなら徳だって積めちゃうんだもん。
やり方には拘らないのが無駄無し屋の拘りだ。
生き残る。