よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

親友は、年齢性別立場を越えたところにいる

 

おはようございます。

穏やかな朝の中に鳴く鳥の声と庭に咲く花に恍惚感を与えられて幸せな無駄無し屋です。

 

昨日は久方ぶりに親友に会いに行ってきました。

たしか会うのは半年ぶり位ではないでしょうか。

 

隣のそのまた隣の市にその友人は暮らしているので、車で約一時間ちょっとのところです。

 

93歳の半世紀祈祷師を続けてきたお婆ちゃん。

僕の親友を文字で形容するならば、こういうことになります。

 

知り合ったのはたしか10年ほど前だったと思います。それは今でもよく覚えている光景であります。当時の僕は廃品回収を生業にしておりました。あのトラックで拡声器を鳴らして「不用品はございませんか?」というようなやつです。ある日ふと気が向いた住宅街を流していると、突然お婆さんが声をかけてきたんです。

 

「これこれ、あんたこの間家にやって来た時にこっちが要る物まで持って帰ったじゃろ?」

 

などと、言うに事欠いてそのババァ、この無駄無し屋を泥棒扱いするではありませんか。無駄無し屋はけっして仏などではなく、どちらかというとチャイルドプレイのチャッキー的な感じであるので、さすがにちょっとムッとしました。そして返した言葉が、

 

「すみませんけども、失礼な因縁をつけてくるのはよしてくれるかな。お宅のレベルの家から出てくるものに盗んでまで欲しいというようなものがあるとは思ってないよ、悪いけど」

と、得意の悪態をついてやりました。快感。

 

そこからなぜか意気投合して今に至るわけなのですが、最近はさすがに老化現象が進んできて、頭と口は今でも健在なのですが、どうも耳が聞こえづらくなってしまったようで難儀しているみたいです。出会った当初でもすでに80を越えていたのですが、その思想と口はするどいナイフのようなキレがありました。が、しかし今は相手の言葉が全て聞き取れないことの失礼に対していささか気に病んでいるようでもあり、それは仕方のないこととはいえ、やはりなんだかリアルな諸行無常を感じるわけなのです。

 

昨日は三時間くらい話をしました。昔は5、6時間は話していたのですがね。今はもうその半分が限界です。話の内容というのは当初から一貫していて、心、つまり精神世界のことについてです。彼女は自宅に隣接した事務所において、他人から相談を受けると、準備を整えてから祈祷に入ります。それは夜中に行われるみたいです。その祈祷場を見せてもらったことがあるのですが、なんだか年期の入った念の渦がまいているような空間でした。そこでお祈りをしているとインスピレーションが降りてくるみたいで、それを彼女は「天の声」と呼びます。

 

そんな非科学的オカルト婆ぁやんって面白いじゃないですか。なんだかロマンがあって。

お互いが理屈ではなく感覚的な言葉を投げては受ける、の繰り返し、つまり精神世界の思想のキャッチボールというものは、誰とでもできることではないので、そういった意味で彼女は僕にとって稀少価値があり、また彼女も僕に対してそういう価値を見いだしているところに親友たる所以があるのです。

 

もう、一回一回が今生の別れとばかりに思ってキャッチボールを楽しんでいます。親友というものは年齢、性別、立場を越えて成立することを実証できたことにも喜びを感じています。

 

いけるところまでいってほしい。

と、思いながら帰路に着きました。