死や死後の世界についての考察
別段意味はないが死神を描いた。
我ながらなかなかキュートに仕上がったものだと思う。
死神は神なのである。神にも色々種類があるようだが、八百万の神を受け入れるとする日本人ならばこの死神にも嫌悪を表さずに畏敬の念をもつべきである…のかどうかは知らんけども、とにかく自分はこの死神という存在にはどことなく魅力を感じていることだけはたしかである。
さて、せっかく死神を描いたことだし、今回は「死」というものについて書いてみようと思う。
まず、真っ先に気になるのが死んだらいったいどうなるのか?ということではなかろうか。
科学的には死んだら無になりそこで全てが終わりとの見解が強いような気がするし、宗教的には魂というものがあり、肉体は滅んでも魂は次の段階、つまりあの世に移動するというような見解が多いような気がする。
まぁどちらにせよ、一回死んだ者が戻ってきたことはこれまでに正式にはないとされているのだから、要するに裏の取れていない憶測の域を脱しない、人類にとっては未だ未知の領域といっても差し支えあるまい。
例えばの話、幽霊が存在するのならば、あの世という存在が非常に現実味を帯びてくるのであるが、残念なことに自分はこの目で幽霊を見たことがない。
が、しかし、見たことがないからといって存在しないなどと否定しきれるほど、見識は狭くない。知人、友人の中には見たことがあるという人がチラホラいる。科学的には脳が見せる幻覚だとする向きらしいが、今まで聞いた話の中には複数人が同時に見たというのもある。一人が幻覚を見るというのはまぁそうかもしれんね、で片付けることも可能だが、別に酒に酔っていたわけでもなく、ドラッグで飛んでたわけでもない健常者数人がいきなり皆で同じ幻覚を見るなどということは、可能性としてはゼロではないかもしれないけれど、どうも幻覚で片付けるには安直すぎるような気がしないでもない。
それでも自分が見てないことには、いや、見たとしても結論づけるのはなかなか難しい問題だ。
でもね、死後に続きがあるのかないのかを論じるのはナンセンスなんじゃないのかとつくづく思うよ。
事実はどっちだっていいけども、あると信じていたほうのが、人間にとっては健全なんじゃないかと思ったりもする自分がいる。
例えば最愛の人、ペットが死んだとしよう。これは悲しいに決まっている。しかしどうしてそんなに悲しくなるのかといえば、もう二度と会うことができないという思いから来るものなのではなかろうか?
それが逆に死後にも続きがあると信じていれば、再開できる可能性は残っているし、終わりではなくて卒業として、自分も卒業するまでのほんのしばしのお別れとすることができ、それでも寂しいことには変わりないが、幾分心が救われるのではなかろうか。
自分は一回死んだこともないし、生まれ変わりを忘れている可能性を否定はできないけども、まぁないと認識しているし、幽霊を見たこともないのであるが、死後に続きがあると信じることにデメリットを感じないので、つまり信じたほうのが精神衛生上よろしいと判断して、うっすらと信じている。
死後の世界ってなにかロマンがあっていいじゃん。
別に真実がどっちだってかまやしない。
まわりに迷惑をかけなけりゃ、なにをどう思おうとそれは個人の自由である。死んだらそれで終わり、と思うほうのが都合の良い人は終わりと思うのがいいだろう。
しかし自分はこのような思いでいる以上、この先、最愛の人やペットを亡くしたとしても、どこか一縷の望みを持ったままこの人生を送ることできる自信がある。
別れにしみったれた坊主のお経なんか無意味と感じている自分は、母が死んだら美空ひばりの音楽を流してやると約束している。
旅立ちを祝ってやるくらいの心持ちは、死後の世界を信じることによってその敷居が低くなると自分は考えている。
そしていつか自分が死ぬ時にも、次の土俵への期待感をもったまま目を閉じたい。
死について書きはじめるとキリがなく、めんどくさくなってきたので今日はこの辺にしておく。