よろず無駄無し屋

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死後の世界を肯定することのメリット

 

死ぬとどうなるのか?

 

死んだ時点で終わりなのか、はたまた次の世界があるのか。

 

これは誰にも完全に否定も肯定もできない、いわば最高にして最大の謎の一つである。

 

ちなみに自分は次の世界があるように肌で感じているし、そう感じて生きていたほうのがなにかと都合もよいというのもあって、俄然死後の世界の肯定派である。

 

実際にあるのかないのかという議論はあまり意味がない。

誰も証拠の出しようがないのであるから。

 

しかし、あると想定して生きることのメリットはある程度説明ができる。

 

死後の世界があるとすれば、死というものがゴールではなくなり、生まれて来た時と同様に一つの大きな通過点であるということになる。

 

それだけで充分に興味をそそられるのであるが、死後の世界が存在するということは、魂が肉体とは別に存在するということでもある。

 

これは非常に明るい希望の光である。

 

自分よりも先に逝った家族やペットが肉体こそなくなったものの、魂という本質的なものとなって次の世界で存在していると思うと、なんだか少し明るい気分にもなれる。

要するに自分もいつかは逝く身であるのだから、その時には再会できるのではないか、という希望。

 

自分の婆ちゃんがこの世を去る数日前から、意識が朦朧としている中で、うわ言のように呟いていた。

 

「○○がそこに居る」、と。

 

何人かの名前を出していたが、それは全部故人の名であった。

 

こういう現象を科学では脳が見せる錯覚だと片付けるみたいであるが、自分はそうとばかりは言えないような感覚を婆ちゃんが逝く過程で持ったものである。

 

ほかにもメリットはある。

 

死後の世界とは、今、この世で暮らしている経験がものをいう世界であり、魂のランクによって次の世界が決まるという想定。

 

そういうふうに考えることで、魂のランクとはなんぞや?という疑問にぶつかり答えを探しだす。

 

つまり自問自答が始まるのである。

 

これがまた底が見えない計り知れないほどの深さがあって、今のこの世の何よりも神秘的であり、面白いものなのである。

 

 

科学はあくまでも枝である。

 

霊性というものが幹である。

 

と、いうふうに自分は本能的感覚からそう信じている。

 

そろそろ本来誰にでも備わっているであろう霊性というものに目覚める時期だとしないと地球は壊れていく一方であるし、自殺者は右肩上がりを避けられまい。

 

 

死後の世界。

 

この確かめることはできないが、理屈を凌駕しその存在を本能に訴えかけてくる現段階の人智を越えた世界を意識するとしないとでは、人生はもちろんのこと、その先の自分の行き先に大きな影響がでてくるのではないかと自分は感じずにはいられない、少し変わった価値観をまんざら間違いではないとの信念をもってして日々を過ごしているのである。

 

そう思う思わないはそれぞれ自由であり、議論の必要はとくにない。

 

結論は自分が逝った時にのみ出てくるものだ。

死後の世界が実際にあろうがなかろうが、そういう設定のもとに日々を暮らしていれば、魂の向上に精を出すことになるので、少なくとも外道に成り下がることはあるまい、と思うがゆえの設定だ。

 

死後の世界を信じることのデメリットがあるというのならば、是非とも聞いてみたいものだ。

 

自分はついに見つけることができなかったから。