よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

言いたいことを言う人生

 

建前というものは好きではないので常に本音一本で生きている。

 

なのであまり世間の表舞台には出られない。

まぁ出たいという願望もない。

小学生の頃から成長していないのかもしれない。

建前を使えないわけではないのだけれど、使う必要性を感じないのだから仕方がない。

 

大人の世界はややこしくできている複雑怪奇な怪しい世界だと感じているが、これは自分がそう主観的に感じているだけでは決してなく、事実、怪しい世界なのである。

 

表現の自由が憲法により保証されているなどというのも、とんだ建前であり、実際には本当のことを書いたりここでしちゃうと、とんでもないことになってしまうことなんか数えきれない程にある。

 

 

自分の本音を出すことはなにもやましいことではない。

しかし、この娑婆では、特にこの日本においては本音はご法度的な空気が漂っているので、建前で凌いでいくのが無難である。

 

しかし無難に凌ぐという消極的な姿勢には自分は魅力を感じない。

 

本音で生きる。

 

誰にでも歓迎されるスタイルではないことは重々承知の上ではあるが、付き合う人間をよく選んでいきさえすれば、本音で生きることほどつよいものはない、と思っている。

 

積極的な姿勢としての本音一本浮気なしな生き方をどこまで通すことができるのかというのも人生の楽しみの一つである。

 

なによりね、ストレスが溜まらないのよ。

これがいちばんのメリット。

 

好きなものは好きと言い、嫌いなものは嫌いと言う。

作り笑顔は見ててわかる。

胡散臭く見える。自分はね。

だから自分も胡散臭く見られたくないものだから、作り笑顔はしないことにしている。

 

本当に笑いたい時だけ笑う。

そんなことでは世渡りできないよ、なんて意見もあるんだろうけども、そんなことはない、世渡りはこれでもちゃんとできている。

 

他人に嫌われるのが苦にならない人ならば、本音だけで世を渡っていくことは充分可能なことだろう。

 

言いたいことを言う。

これほどにスッキリとすることはなかなかないよ。

人間なんて上っ面をなんぼ取り繕ったところで所詮は人間でしかなく、それ以上でも以下でもない。

神でもなければ仏でもない。

 

短気な人間がいたっていいし、どんくさい人間がいたっていい。

 

建前で生きる人間がいてもいいし、本音で生きる人間もいたっていい。

 

と、勝手に自分でそう思っている。

 

自分はわりと短気でいて本音を撒き散らす人間だけど、それが世の中で受け入れられようが、られまいが、そんなことはどっちだっていいと心の底から思っている。

 

重要なのは他人に好かれるかとかではなくて、自分の出した本音が相手の迷惑になるかならないか、だ。

 

自分の本音が誰かの何かに役立つなんてことになれば、これが最高なことなんだよね。

 

言いたいことを言って人の役に立つ。

そんな人間を目指している。