よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

死や死後の世界についての考察


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別段意味はないが死神を描いた。

我ながらなかなかキュートに仕上がったものだと思う。

 

死神は神なのである。神にも色々種類があるようだが、八百万の神を受け入れるとする日本人ならばこの死神にも嫌悪を表さずに畏敬の念をもつべきである…のかどうかは知らんけども、とにかく自分はこの死神という存在にはどことなく魅力を感じていることだけはたしかである。

 

さて、せっかく死神を描いたことだし、今回は「死」というものについて書いてみようと思う。

まず、真っ先に気になるのが死んだらいったいどうなるのか?ということではなかろうか。

科学的には死んだら無になりそこで全てが終わりとの見解が強いような気がするし、宗教的には魂というものがあり、肉体は滅んでも魂は次の段階、つまりあの世に移動するというような見解が多いような気がする。

まぁどちらにせよ、一回死んだ者が戻ってきたことはこれまでに正式にはないとされているのだから、要するに裏の取れていない憶測の域を脱しない、人類にとっては未だ未知の領域といっても差し支えあるまい。

 

例えばの話、幽霊が存在するのならば、あの世という存在が非常に現実味を帯びてくるのであるが、残念なことに自分はこの目で幽霊を見たことがない。

が、しかし、見たことがないからといって存在しないなどと否定しきれるほど、見識は狭くない。知人、友人の中には見たことがあるという人がチラホラいる。科学的には脳が見せる幻覚だとする向きらしいが、今まで聞いた話の中には複数人が同時に見たというのもある。一人が幻覚を見るというのはまぁそうかもしれんね、で片付けることも可能だが、別に酒に酔っていたわけでもなく、ドラッグで飛んでたわけでもない健常者数人がいきなり皆で同じ幻覚を見るなどということは、可能性としてはゼロではないかもしれないけれど、どうも幻覚で片付けるには安直すぎるような気がしないでもない。

 

それでも自分が見てないことには、いや、見たとしても結論づけるのはなかなか難しい問題だ。

でもね、死後に続きがあるのかないのかを論じるのはナンセンスなんじゃないのかとつくづく思うよ。

事実はどっちだっていいけども、あると信じていたほうのが、人間にとっては健全なんじゃないかと思ったりもする自分がいる。

 

例えば最愛の人、ペットが死んだとしよう。これは悲しいに決まっている。しかしどうしてそんなに悲しくなるのかといえば、もう二度と会うことができないという思いから来るものなのではなかろうか?

それが逆に死後にも続きがあると信じていれば、再開できる可能性は残っているし、終わりではなくて卒業として、自分も卒業するまでのほんのしばしのお別れとすることができ、それでも寂しいことには変わりないが、幾分心が救われるのではなかろうか。

 

自分は一回死んだこともないし、生まれ変わりを忘れている可能性を否定はできないけども、まぁないと認識しているし、幽霊を見たこともないのであるが、死後に続きがあると信じることにデメリットを感じないので、つまり信じたほうのが精神衛生上よろしいと判断して、うっすらと信じている。

 

死後の世界ってなにかロマンがあっていいじゃん。

別に真実がどっちだってかまやしない。

まわりに迷惑をかけなけりゃ、なにをどう思おうとそれは個人の自由である。死んだらそれで終わり、と思うほうのが都合の良い人は終わりと思うのがいいだろう。

 

しかし自分はこのような思いでいる以上、この先、最愛の人やペットを亡くしたとしても、どこか一縷の望みを持ったままこの人生を送ることできる自信がある。

別れにしみったれた坊主のお経なんか無意味と感じている自分は、母が死んだら美空ひばりの音楽を流してやると約束している。

 

旅立ちを祝ってやるくらいの心持ちは、死後の世界を信じることによってその敷居が低くなると自分は考えている。

そしていつか自分が死ぬ時にも、次の土俵への期待感をもったまま目を閉じたい。

死について書きはじめるとキリがなく、めんどくさくなってきたので今日はこの辺にしておく。

 

自分流を見つけ磨く


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次の作品があらかた出来た。が、裏打ち作業が終わっていないので紙が波打つ。

 

自分流を見つけ磨くことで唯一無二となる。

 

この言葉を自分の部屋に掲げて五年の月日が過ぎ去った。

これは芸術の世界で勝負する者にとっての基本であり、奥義であると考えるので書いて部屋に飾ったわけなんだが、そこを徹底するために、本来は邪道とされる我流、つまり書にしても絵にしても誰にも教えを乞わずに一人ひたすら練習に励んでいる。

習字の先生や絵画の先生などから見るとデタラメなものに写る可能性が高いが、自分から見たら、習字や絵画の先生の作品が、上手には見えるけども退屈にも見えるので教えを乞いたいとは思わない。

 

作品に求めるものの相違。

 

芸術の世界は数学じゃないんだからただ一つの正解なんてありはしない。

上手下手が問題じゃないとは思わないが、それ以上に描く人らしさ、つまり個性が出ているか否かが重要だと自分は思っている。例えば技術的にピカソの絵を模写できる人はいるであろうし、むしろピカソよりも上手な人も存在するだろう。だけども、ピカソの絵の構図、発想などはピカソだけのものであり、誰にも真似はできそうでできないものであろう。

 

書聖と言われた王羲之の文字を真似るのが上手であれば、その人は綺麗な文字であることは間違いないが、それは書道とは言わず、習字であるといえるのではなかろうか。

あいだみつおという書道家がいたけれども、晩年の彼の作品は綺麗に書こうという気が微塵も感じられない等身大の個性的なものであり、言葉選びも巧みであったためウケたが、若かりし日の彼の作品ときたらそれはもう綺麗で上手で退屈な習字であったように見受けられる。

おそらく途中から自分流を見つけ、それを磨き、唯一無二へと到達した人の一人であろう。

 

基本は大事である。ではその基本とは何か?

それは本質ということだ。

 

てことは、本質を自分で見つけることができるのならば、誰かに師事する必要はないわけだし、むしろ師匠の色を押し付けられなくて済み、純度100パーセントの自分色を作ることができる。

もちろんその本質を見つけるには真剣な姿勢がないと駄目だし、尚且つ持って生まれた資質というものも無視できない。

 

我流の道は他人に教えてもらうよりも回り道になるので先を急ぐ人にはお勧めできないいばらの道ではあるが、その回り道でさえも芸の肥やしとすることができる自信がある人は、是非我流の道に挑戦していただきたく思う。

なぜならば、そのほうが面白いものができる可能性が高いから。

自分が芸術にもとめるのは色々あるけども、まず第一に面白さなのである。

それは絵でも書でも文章でも一緒。

なのでそこを極めるべく日々精進したい。

そしてゆけるところまで。

食べ物は濃い味が好き。

謹賀新年

さぁーてと、久しぶりにブログの更新でもしてみようかな。

二、三ヶ月ほったらかしだったから新鮮な気持ちだね。

 

なんの因果か最近は絵に夢中。描くのももちろん楽しいが、塗りがとにかく面白い。またこれが難しいのなんのって、そこがたまらなく夢中になれる中心点だ。呼び名は定かではないが、こんなの使って塗っている


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そしてこんなふざけた絵なんか描いて一人喜んでいる


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出来上がった後の裏打ちというもう一枚紙を張り付ける作業もなかなか難しい。

色と色をかけあわせて気に入った自分だけの色が出来た時には年甲斐もなくテンションが上がる。我ながらまた良い遊びを発見したものだと自画自賛したくなりもする。

しかしそのせいでこのブログが疎かになってしまったのはちょっと残念だが、これからは平行してゆけるように時間を上手に使おうと思う。なんてったってブログはブログでこれまた面白いからね。自宅で一人で誰にも気兼ねせずに遊べるブログや絵なんかは金もたいしてかからないし最高だよ。

 

まぁそんな感じで新年も明けたわけだけれど、面白き事なき世を面白く生きることを今年も徹底してゆこうと思っている。こんな環境には感謝感激雨あられというほか言葉が見つからないぜっ!

残念な人


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こんばんは。

幻想的な空が好きなわりとロマンチストなふしがある無駄無し屋です。

 

本日も特に何が書きたいということもないのですが、たまには書いておかないといけないかな、という謎の責任感からこうして書き始めています。

二匹の真っ黒な子猫が庭に住み着いているようです。巷では野良猫に餌をやるのは無責任だと言われてるみたいですが、そんなのは関係ありません。無責任という言葉の本質を突き詰めていくと人間は皆無責任であると言えると思うし、小賢しい正論で理論武装している御仁達には解せない心情というものがあります。

餌を与えるのが正しいなどと言う気は更々ありませんが、餌をやらないのが正しいとも押し付けられたくありません。いいんです。非常識と言われようが、馬鹿だと言われようが。

全てから救ってやることは私には不可能ですが、自分にできることはやっておきたいといった心境です。

猫のためにならない、だとか、周囲に迷惑がかかるといった意見はごもっともなことではありますが、猫が今日一日を生き抜けるといったこととか、周囲はもっと寛容な心を持とうよ、といった観点が存在することも、またもっともなことだと私は思います。

そういったことから言いますと、この世の中で戦争、いざこざがなくなることは、不可能ではないにしろ、かなり、非常に難しい、といいますか、今のままでは不可能だということではないでしょうか?

 

今のままでは、というのであれば、今のままでなくなればいいのであって、そこをどうするかというところで、急いて事を仕損じたオウム真理教なり三島由紀夫なりはタイミングが早すぎたという見方もできると思うのです。

ところで麻原という人物はとんでもない欲の権化という面が報道のほとんどを占めていましたが、実は能力という面ではすこぶる高いものがあるということも認めざるを得ません。

なのでそれらを統合してからの判断としましては、残念な人、というのが私にはいちばんしっくりとくる表現なのであります。

 

もちろん、これらの考えはただの私の完全な主観に基づいてのものですので、世間様からしたらとんだ勘違いである可能性は否めません。それでも思ったこと、本心をさらけ出すことに対する快感は、それだけのリスクを背負う値打ちがあるように感じるものですから、こうして思ったことを素直に書いてみるのです。

親友は、年齢性別立場を越えたところにいる

 

おはようございます。

穏やかな朝の中に鳴く鳥の声と庭に咲く花に恍惚感を与えられて幸せな無駄無し屋です。

 

昨日は久方ぶりに親友に会いに行ってきました。

たしか会うのは半年ぶり位ではないでしょうか。

 

隣のそのまた隣の市にその友人は暮らしているので、車で約一時間ちょっとのところです。

 

93歳の半世紀祈祷師を続けてきたお婆ちゃん。

僕の親友を文字で形容するならば、こういうことになります。

 

知り合ったのはたしか10年ほど前だったと思います。それは今でもよく覚えている光景であります。当時の僕は廃品回収を生業にしておりました。あのトラックで拡声器を鳴らして「不用品はございませんか?」というようなやつです。ある日ふと気が向いた住宅街を流していると、突然お婆さんが声をかけてきたんです。

 

「これこれ、あんたこの間家にやって来た時にこっちが要る物まで持って帰ったじゃろ?」

 

などと、言うに事欠いてそのババァ、この無駄無し屋を泥棒扱いするではありませんか。無駄無し屋はけっして仏などではなく、どちらかというとチャイルドプレイのチャッキー的な感じであるので、さすがにちょっとムッとしました。そして返した言葉が、

 

「すみませんけども、失礼な因縁をつけてくるのはよしてくれるかな。お宅のレベルの家から出てくるものに盗んでまで欲しいというようなものがあるとは思ってないよ、悪いけど」

と、得意の悪態をついてやりました。快感。

 

そこからなぜか意気投合して今に至るわけなのですが、最近はさすがに老化現象が進んできて、頭と口は今でも健在なのですが、どうも耳が聞こえづらくなってしまったようで難儀しているみたいです。出会った当初でもすでに80を越えていたのですが、その思想と口はするどいナイフのようなキレがありました。が、しかし今は相手の言葉が全て聞き取れないことの失礼に対していささか気に病んでいるようでもあり、それは仕方のないこととはいえ、やはりなんだかリアルな諸行無常を感じるわけなのです。

 

昨日は三時間くらい話をしました。昔は5、6時間は話していたのですがね。今はもうその半分が限界です。話の内容というのは当初から一貫していて、心、つまり精神世界のことについてです。彼女は自宅に隣接した事務所において、他人から相談を受けると、準備を整えてから祈祷に入ります。それは夜中に行われるみたいです。その祈祷場を見せてもらったことがあるのですが、なんだか年期の入った念の渦がまいているような空間でした。そこでお祈りをしているとインスピレーションが降りてくるみたいで、それを彼女は「天の声」と呼びます。

 

そんな非科学的オカルト婆ぁやんって面白いじゃないですか。なんだかロマンがあって。

お互いが理屈ではなく感覚的な言葉を投げては受ける、の繰り返し、つまり精神世界の思想のキャッチボールというものは、誰とでもできることではないので、そういった意味で彼女は僕にとって稀少価値があり、また彼女も僕に対してそういう価値を見いだしているところに親友たる所以があるのです。

 

もう、一回一回が今生の別れとばかりに思ってキャッチボールを楽しんでいます。親友というものは年齢、性別、立場を越えて成立することを実証できたことにも喜びを感じています。

 

いけるところまでいってほしい。

と、思いながら帰路に着きました。

愛人

こんにちは。

台風の風とスピーディな雲の流れに年甲斐もなくワクワクしてしまう不謹慎極まりない無駄無し屋です。

 

さて、本日もなんとなく書きたいなという心の内からの衝動に忠実に真面目に書いていこうと思います。

 

今日のBGMは80~90年代のHIPHOPでノリノリです。HIPHOPという音楽のなにが良いのかといえば、それはずばりリズムであります。リズムなんです。それ意外は求めていません。軽いノリの文章なんかを書くときには重宝する音楽です。

表面のみをオーブンでカリっと焼いたトーストの上に、ブルーベリーのジャムをしこたま乗っけて牛乳と一緒にほおばった今朝は気分が良かったです。

それから先日CD屋で中古の一枚300円なCDを5枚買った中のこのHIPHOPのCDは我ながら掘り出し物だったことも僕の気分を良くしてくれている一因であります。

 

そんなことは僕の心の中だけの話で、言ってみればどうでも良いことなのですが、どうでも良いついでに友人が愛人をこしらえてきた話でも書いてみようかと思います。

 

わりと広範囲にわたって仕事をこなしているその友人は、この度、名古屋だか東京だかで運命的な出会いを感じたなどと言いながら東京から女性を連れて帰って来ました。

建前は付き人として。

さすがに連れてきた女性はこの僕と同じ年齢の42でありながら、このへん、つまり広島県の尾道あたりには見かけることのないような洗練された雰囲気を醸し出しておりました。

 

始めに書いておきたいのですが、僕は妻子ある男が妾を囲うことに対して別段悪いこととは思っていないので、とやかくいうつもりはありません。甲斐性とルールを守る最低限の自制心があればよいのではないでしょうか、と思うのです。

英雄色を好むという言葉もありますように、世の中で活躍するような人達はわりとそういう感じになりがちだというのは、世間的に良いとか悪いとかは別として、事実であるのだから、そこは受け入れるほうのがより自然な感じがいたします。この世の中は綺麗事では成り立っていないというのが紛れもない真実なのですから。

 

と、まぁ友人が連れてきた都会の愛人はすこぶるフットワークが軽いと見えて、すぐさまこの尾道に住居を借りて住み始めました。そもそもこの女性は独身、自営業でお金に困っているわけでもなく、家庭にも収まっていないので、自由な身でありまして、そういう点ではなんだか格好いいなというような印象を受けました。

 

まだ出会って3ヶ月も経っていないこの二人がこの先どういう運命を辿るのかは、それこそ神のみぞ知るといった感がありますが、僕の想いとしましては、お互いに足りない部分を補いあえる、良きライフパートナー、もしくはビジネスパートナーとなって、プラトニックな純粋の人間愛にでも昇華していってくれれば、というところです。

 

友人は奥さんに対してはたしかに不義理をしたことになります。一夫一婦制のこの国においてはそういうことでしょう。ですが、人間が決めた規制が全ていつ如何なる時にでも善と働くかと言えばそうとも言えないと僕は思います。

逆に人間が決めたルールを破ったからといって、全てが悪に働くとも限りません。

 

なんでもそうだと思うのですが、上手にやらなければなりません。

 

溺れるのはアウトであり、依存するのは悪と言えます。あと、現実的な面でお金に切羽詰まっていては話になりません。

 

愛人を囲うというのは率直にいってしまえば浮気です。

 

罪を背負って生き抜いて行く、悪の美学というものを是非とも見てみたいと思っている、決して善人とは言い難い無駄無し屋でした。

 

僕は善人でも悪人でもそんなことはどうだっていいタチで、とにかく一流なものを見たいし関わりたいと思っています。

 

さてと、風が少し強くなってきたので洗濯物でも取り込もうかと思います。

嘘つきなんです


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こんばんは。

夕暮れ時に橋の袂でたそがれるのも日常的な営みの一つとする無駄無し屋です。このような場所が生息地にあることをすこぶる嬉しく思います。

 

さて、本日は「嘘」ということについて少し書いてみようかと思います。

 

皆さんは嘘つきですか?それとも正直者ですか?

 

かくゆう私は嘘つきも嘘つき、大嘘つきでございます。よくもまぁこうも思ってもいないことを素知らぬ顔していけしゃあしゃあと口にできるなぁ、などと我ながらその辺に関しましては良いとか悪いとかを凌駕して、ただただ凄いな、というふうに感心致すところです。

 

この世の中におきましては、嘘つきは泥棒の始まり、という言葉があるかと思えば、正直者は馬鹿を見る、というような言葉もありまして、そのどちらかに一辺倒な方は、やはりどちらにせよ残念な方と評するしか選択肢はないのではないでしょうか。

 

私はその昔、正直者でした。

美化して言えば、汚れを知らぬ純粋な生き物、ということになりましょうか。これは意外と衝突が多くて厄介なスタイルだったと、今にして思えば振り返ることができますね。

 

世間というものを衝突を重ねながら半ば強引に突き進んでいくうちに、時と場合によっては嘘をつけないと誤解や衝突を招くのを回避できないことを知ってしまいました。それまでの私ときたら本音一本という大変端から見れば迷惑&危険な存在であったことでしょう。その場を凍りつかすような発言もしばしば。

まぁそれはそれで場合によっては必要なこともあるのですが、毎回毎回凍りつかせていてはエスキモーとあだ名されても反論の余地がありません。なので、本音は奥の手として、通常運転は嘘でもなんでもいいからなるだけ摩擦がおこらないように配慮するようになりました。

 

例えば自分を上げるための嘘は格好悪いと思います。しかし自分を下げる嘘であるならば、それは誰にも迷惑をかけることもないですし、事がうまく運ぶことが多いので大いに使えばよろしいのではないでしょうか。

 

仮に他人の子供を見て、正直「この忌々しい馬鹿ガキが」なんて思ったとしても、「まぁ、可愛い坊っちゃんだこと」くらいの嘘はついておかなければ事はうまく運びません。

 

ある意味では女性のお化粧も嘘と言えないこともないでしょう。本質的なところから化けて魅せるわけですから。演技も嘘。同調も嘘。社交辞令も嘘。こうして見ますと世の中は嘘で回っていると言っても過言ではない、と言えると思います。

 

これは要は次元の問題といいますか、その次元の高い嘘であればその場はうまく運び、反対に次元の低い嘘であれば他人を傷つけたり、自分の価値を落としてしまいかねない、というふうになると私はこれまでの経験から考えるのです。

 

今現在も嘘がつけないばっかりに損をしながら生きている方は、自分の固い頭をよくこねて柔軟にし、私は俺は不器用なんだ、などと逃げていないで、もっと前向きに、アグレッシブに嘘をついたほうのが楽しいしラクになると思います。

反対に嘘ばっかりついている人は、すこし自分の発言に責任をもつ習慣をもつようにしなければなりませんね。

 

粋で上手な嘘をつけるように日々練習することが、幸せに近づく方法の一つだと私は信じて疑いません。

不純な動機

 

こんばんは。

貧乏でも心は豊かな無駄無し屋です。

 

大体、このブログを書くのは午前中であることが多いのですが、時には気分を変えてという意味も含めまして、こうして夜に書いている次第でございます。

夜はめっきり涼しくなってきたもので、只今ブラックコーヒーに蜂蜜を入れて飲んでいるのですが、これがまたうまいのなんのってな具合でございまして、先日友人に手土産としていただいた龍眼蜂蜜という、台湾製のものなのですが、別段舌が利くわけでもないので、他の蜂蜜と比べてもどこがどう違うのかはわかりませんが、とにかく蜂蜜はおいしいのです。

 

まぁそんな感じでくつろぎながら今この文章を書いているわけなのですが、秋の夜長においしい珈琲を飲みながらブログにて思いつくまま自由に言葉を打ち込んでゆくという作業、というかシチュエーションに、自己陶酔作用を感じるのは、まことに喜ばしいことであります。

少しばかり季節外れであるのかもしれませんが、桜の香りのするお香を焚いています。良いシチュエーションに香りは大事です。それから照明も大事です。白く光る電気では雰囲気は出ません。黄色く光る電球一つで少し薄暗いくらいがいいですね。ベストなのは蝋燭の灯りなのですが、残念なことに自宅に蝋燭はありません。

それから音も大事です。今日はアコースティックギターのどこか哀愁の漂う音色を楽しんでいます。

 

自分の心をベストな状態にもってゆく環境づくりには余念がありません。このブログにおいてもいちばん大事なのは何を書くかと頭を悩ませることではなく、如何にして自分のモチベーションを高めるか、というところだと私は思っています。高いモチベーションを維持してさえいれば、おのずと言葉は生まれてくるものなのではないでしょうか。

 

またこうして内容のないことを自分の退屈しのぎにカタカタカタカタ打ち込んでしまっていることに特に自己嫌悪はありません。なんだか軽いストレス発散のようでもあり、ちょっとした創作意欲を満たしてくれるものでもあって、とにかく、さして人様のお役に立たない文章ではあっても、少なくとも自分の心は潤っているわけですからそれで充分、それ以上を望むことは欲深いことだ、とか言うとなんだか聞こえが良くて満足です。

 

まぁいつものことなのですが、結局この文章で何が言いたかったのか?と聞かれるとその答えは「いや、特にありません」としか言いようがありません。なにせただキーボードを叩きたかっただけという不純な動機なものですから。

 

時代の流れに乗ろうとしない哀れな古い人間ですが、なにか?

 

おはようございます。

今の世の中の善意というものの大半が茶番のように思えてしかたのない、そこはかとなく時代遅れ感の漂う無駄無し屋です。

 

先日幼なじみがママを務めるスナックに顔を出しました。昭和の香りがプンプンしてくる店舗に親しみが湧きました。そこにはカウンター席があるだけで、こじんまりとしたキャパ的に見ても大金を稼げるような感じがしないところに好感がもてました。そんなお店にお客は私一人で、カウンターの向こうにはバイトのホステスとママの二人が他愛のない世間話を繰り広げていました。私はお酒を飲みませんのでコーラを頼んで飲んでいましたところ、ドアが空きました。お客です。中年のカップルのようでした。そのすぐあとに今度は男性の二人組が入ってきました。

私は安心しました。このままお客が自分一人なままだと、どうもお金をたくさん使ってあげないといけないように思えてくるのは、けっしてそのママが幼馴染みであるということに由来するものではありません。店舗の家賃、ホステスの人件費などをつい考慮してしまうのです。

まぁそんなことはどうでもよいことなのですが、横に座った男性二人組と仲良くなりました。色々と話していると彼らは船乗りで、一人は千葉、もう一人は佐賀の人だということを知りました。すでにどこぞで一杯ひっかけてきた模様で、調子が良さそうでした。

 

酒場というところは面白いところです。

人間は、というか特に日本人は日頃から他人の目を気にしがちな人種であるように思います。そんなところが知らず知らずのうちにストレスとなって、お酒という意識に変革をきたす魔法の液体を欲することになるのではなかろうかと思ったりもします。お酒や煙草という、いわゆる嗜好品と呼ばれる類いのものたちは、常にそれが害か益かという議論の的にされやすいのですが、私はそれはまったくの的はずれなことだと思っていて、煙草やお酒がどうということではなくて、それらと我々人間がどう付き合ってゆくかというところを的にすべきだというふうに考えています。

何事も過ぎてはいけませんし、過ぎなければ良薬と見ることもできるのが、この世の中の真実なのではないでしょうか。

 

酒に酔って暴れる人はいますが、スマートに気分よく飲む人もおられます。酒が悪いのであればこのような差異が見られることはなく、すべての人が暴れることになるはずです。お酒に罪はありません。上手にお酒と付き合えない人に罪があるだけの話だと私は思います。

 

はっきり言ってお酒や煙草に期待するのは肉体的なものではなく、精神的なものです。

 

体に害が、というような主張をする人達も、車を運転して排気ガスを撒き散らしているのですし、私の大嫌いな臭いの納豆だって、おいしいからと平気で皆さん隣でお食べになります。添加物のたっぷりと入った食物も体に良くないことは明白なことです。

 

話がややこしい方向に向かい始めたようなので、ここで軌道修正をいたしましょう。

 

要するに体に多少の害があろうとも、便利だとか美味しいからだとかいうメリットがあれば、多少のことは目をつむろうというのが人間の一つの面にある真実であるのでしょう。レントゲン写真なんかもそうですね。

 

私なんかは片かいなに彫り物がございますし、煙草は吸い、野良猫には餌をやるような、現在では全くの馬鹿野郎な部類に属する手合いではございますが、それはたまたま時代が流れて過去の文化、常識がかわっていっただけのことであって、ご心配なさらずとも、今の文化、常識も、令和が終わる頃には古く、間違ったものとなっていることでしょう。

 

そんなのの繰り返しですね。なのでいちいち過去の文化、常識に目くじらを立てて否定するのはもはや滑稽なことであるように、私は感じております。こういった考えに対して否定をされることはいっこうに構いませんし、同調を求めてもおりません。ただ、わたしはそう思っている、という思想の自由を主張したいだけのことなんです。

 

なんだか今日もよくわからない話の展開になってしまったのですが、皆様からお代を頂戴しているわけでもありませんので、素人の書いたつたない文章だと寛容な心をもっていただけたなら幸いです。

世の中とは実に複雑怪奇なものである

 

こんにちは、今日からタバコが510円になっていることに買ってはじめて気づくという、まぁまぁ世間知らずな無駄無し屋でございます。

 

しかしながらこの先タバコがどれ程値上がりしてゆこうとも、自分が吸う気がなくなるまでは、買い続けることでしょう。話は変わりますが、今朝も海辺に散歩にでかけたのですが、そこに一人、釣りをしているおじさんがいました。コンビニで購入したと思われる、プラスチック容器に入った珈琲を片手に持っていました。その光景を遠目になんとなく眺めていたのですが、こともあろうにそのおじさん、飲み終えたあとのカップを海にポイ捨てしてしまいました。私は行き過ぎたモラリストではないので、別段注意はしませんでしたが、心の中では「残念な人だなぁ」と、思ったことは事実です。

しかしながら、何に対してもそうであると思いますけれど、このような末端の者にいくら駄目だよと声をかけたところで、次元の低い口論が始まるのは容易に想像できますし、仮にその場はこちらの剣幕に押されて納得したふりをさせたとしても、次回からこのおじさんがポイ捨てをやめるとは思えません。問題はもっと根本のところにあるように思います。

 

私は年功序列というのが好きではありません。これまでの常識で言いますと、先に生まれた分、人生経験が豊富なのだから、人生の先輩として敬うべきだ、ということになるのでしょうが、たしかに敬うべき年配者が数多く存在しているのは認めるところですけれど、それとは逆に、「こいつ、この年まで生き永らえてきたわりに、何にも学んでねぇな」というような年配者が存在することも、認めざるを得ません。

私よりも若輩で、物事をよくわきまえ、立派だなぁ、と思う人もいくらでもいます。

要するに敬うべき対象の判断基準は年齢ではなく、その人間の人格である、と私は思っていますし、実際そのように態度にも表します。

 

これは極端な思想と捉えられるのだとは思いますが、敬語というのはそもそも尊敬している人に対して使う言語だというふうに私は解釈しておりまして、もちろん一応初対面の人には敬語から始めますが、話していて「この人は尊敬に値しないな」などと思ってしまいますと、もう駄目で、途中からでも敬語は使わなくなるというような始末であります。

人はこのような私を見て非常識な野郎だと思うのでしょうが、私からしたらそんなことお構い無しなものなので、嫌われようが、非難されようが、このままのスタンスでこの人生を歩んでゆきたく思っている次第でございます。

 

もちろん、このようなスタンスは半ば世捨て人のような暮らしをしている私だから通用するのであって、普通の、まっとうな社会人の方々ではこのようなスタンスでいくと大変なことになってしまうのは明々白々なことだと存じております。

私はこの人生を我儘に好き勝手に自由奔放に生きている自覚がありますけれど、その分、より多くの人様から好かれることは、とうの昔に諦めているのであり、どう配慮に労を費やしたところで、まったく他者に迷惑をかけることなく生きてゆくことは不可能であるというような結論に至っております。

 

聖人君子とは対局に位置する人間であっても、時には意図せず他者の役に立ってしまう偶然は起こります。そんなもんでいいのではないでしょうか。あからさまな正論、常識を振りかざしてこられる御仁たちには、世の中の本質をよく理解しておられないのではないか、もしくは自分のことが見えていないのではなかろうか、などとひねくれた角度から軽蔑の眼差しを向けてしまう自分はよっぽどのこと、社会的に問題がある反社会個人…とまではいかないにしても、社会不適合者であることは否めません。

 

このように、やれやれな感じのするこの無駄無し屋ではありますが、煙草の吸い殻はポイ捨てしません。携帯灰皿か、自分のポケットにしまって自宅に持ち帰ります。

そんな感じで人にはそれぞれ自分なりのモラルがあるように思えます。ただ、そのそれぞれのモラル、というか価値観の違いから争いは起きるのでしょうから、この世の中は実に難しいものであります。