よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

世の中とは実に複雑怪奇なものである

 

こんにちは、今日からタバコが510円になっていることに買ってはじめて気づくという、まぁまぁ世間知らずな無駄無し屋でございます。

 

しかしながらこの先タバコがどれ程値上がりしてゆこうとも、自分が吸う気がなくなるまでは、買い続けることでしょう。話は変わりますが、今朝も海辺に散歩にでかけたのですが、そこに一人、釣りをしているおじさんがいました。コンビニで購入したと思われる、プラスチック容器に入った珈琲を片手に持っていました。その光景を遠目になんとなく眺めていたのですが、こともあろうにそのおじさん、飲み終えたあとのカップを海にポイ捨てしてしまいました。私は行き過ぎたモラリストではないので、別段注意はしませんでしたが、心の中では「残念な人だなぁ」と、思ったことは事実です。

しかしながら、何に対してもそうであると思いますけれど、このような末端の者にいくら駄目だよと声をかけたところで、次元の低い口論が始まるのは容易に想像できますし、仮にその場はこちらの剣幕に押されて納得したふりをさせたとしても、次回からこのおじさんがポイ捨てをやめるとは思えません。問題はもっと根本のところにあるように思います。

 

私は年功序列というのが好きではありません。これまでの常識で言いますと、先に生まれた分、人生経験が豊富なのだから、人生の先輩として敬うべきだ、ということになるのでしょうが、たしかに敬うべき年配者が数多く存在しているのは認めるところですけれど、それとは逆に、「こいつ、この年まで生き永らえてきたわりに、何にも学んでねぇな」というような年配者が存在することも、認めざるを得ません。

私よりも若輩で、物事をよくわきまえ、立派だなぁ、と思う人もいくらでもいます。

要するに敬うべき対象の判断基準は年齢ではなく、その人間の人格である、と私は思っていますし、実際そのように態度にも表します。

 

これは極端な思想と捉えられるのだとは思いますが、敬語というのはそもそも尊敬している人に対して使う言語だというふうに私は解釈しておりまして、もちろん一応初対面の人には敬語から始めますが、話していて「この人は尊敬に値しないな」などと思ってしまいますと、もう駄目で、途中からでも敬語は使わなくなるというような始末であります。

人はこのような私を見て非常識な野郎だと思うのでしょうが、私からしたらそんなことお構い無しなものなので、嫌われようが、非難されようが、このままのスタンスでこの人生を歩んでゆきたく思っている次第でございます。

 

もちろん、このようなスタンスは半ば世捨て人のような暮らしをしている私だから通用するのであって、普通の、まっとうな社会人の方々ではこのようなスタンスでいくと大変なことになってしまうのは明々白々なことだと存じております。

私はこの人生を我儘に好き勝手に自由奔放に生きている自覚がありますけれど、その分、より多くの人様から好かれることは、とうの昔に諦めているのであり、どう配慮に労を費やしたところで、まったく他者に迷惑をかけることなく生きてゆくことは不可能であるというような結論に至っております。

 

聖人君子とは対局に位置する人間であっても、時には意図せず他者の役に立ってしまう偶然は起こります。そんなもんでいいのではないでしょうか。あからさまな正論、常識を振りかざしてこられる御仁たちには、世の中の本質をよく理解しておられないのではないか、もしくは自分のことが見えていないのではなかろうか、などとひねくれた角度から軽蔑の眼差しを向けてしまう自分はよっぽどのこと、社会的に問題がある反社会個人…とまではいかないにしても、社会不適合者であることは否めません。

 

このように、やれやれな感じのするこの無駄無し屋ではありますが、煙草の吸い殻はポイ捨てしません。携帯灰皿か、自分のポケットにしまって自宅に持ち帰ります。

そんな感じで人にはそれぞれ自分なりのモラルがあるように思えます。ただ、そのそれぞれのモラル、というか価値観の違いから争いは起きるのでしょうから、この世の中は実に難しいものであります。