よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

時代の流れに乗ろうとしない哀れな古い人間ですが、なにか?

 

おはようございます。

今の世の中の善意というものの大半が茶番のように思えてしかたのない、そこはかとなく時代遅れ感の漂う無駄無し屋です。

 

先日幼なじみがママを務めるスナックに顔を出しました。昭和の香りがプンプンしてくる店舗に親しみが湧きました。そこにはカウンター席があるだけで、こじんまりとしたキャパ的に見ても大金を稼げるような感じがしないところに好感がもてました。そんなお店にお客は私一人で、カウンターの向こうにはバイトのホステスとママの二人が他愛のない世間話を繰り広げていました。私はお酒を飲みませんのでコーラを頼んで飲んでいましたところ、ドアが空きました。お客です。中年のカップルのようでした。そのすぐあとに今度は男性の二人組が入ってきました。

私は安心しました。このままお客が自分一人なままだと、どうもお金をたくさん使ってあげないといけないように思えてくるのは、けっしてそのママが幼馴染みであるということに由来するものではありません。店舗の家賃、ホステスの人件費などをつい考慮してしまうのです。

まぁそんなことはどうでもよいことなのですが、横に座った男性二人組と仲良くなりました。色々と話していると彼らは船乗りで、一人は千葉、もう一人は佐賀の人だということを知りました。すでにどこぞで一杯ひっかけてきた模様で、調子が良さそうでした。

 

酒場というところは面白いところです。

人間は、というか特に日本人は日頃から他人の目を気にしがちな人種であるように思います。そんなところが知らず知らずのうちにストレスとなって、お酒という意識に変革をきたす魔法の液体を欲することになるのではなかろうかと思ったりもします。お酒や煙草という、いわゆる嗜好品と呼ばれる類いのものたちは、常にそれが害か益かという議論の的にされやすいのですが、私はそれはまったくの的はずれなことだと思っていて、煙草やお酒がどうということではなくて、それらと我々人間がどう付き合ってゆくかというところを的にすべきだというふうに考えています。

何事も過ぎてはいけませんし、過ぎなければ良薬と見ることもできるのが、この世の中の真実なのではないでしょうか。

 

酒に酔って暴れる人はいますが、スマートに気分よく飲む人もおられます。酒が悪いのであればこのような差異が見られることはなく、すべての人が暴れることになるはずです。お酒に罪はありません。上手にお酒と付き合えない人に罪があるだけの話だと私は思います。

 

はっきり言ってお酒や煙草に期待するのは肉体的なものではなく、精神的なものです。

 

体に害が、というような主張をする人達も、車を運転して排気ガスを撒き散らしているのですし、私の大嫌いな臭いの納豆だって、おいしいからと平気で皆さん隣でお食べになります。添加物のたっぷりと入った食物も体に良くないことは明白なことです。

 

話がややこしい方向に向かい始めたようなので、ここで軌道修正をいたしましょう。

 

要するに体に多少の害があろうとも、便利だとか美味しいからだとかいうメリットがあれば、多少のことは目をつむろうというのが人間の一つの面にある真実であるのでしょう。レントゲン写真なんかもそうですね。

 

私なんかは片かいなに彫り物がございますし、煙草は吸い、野良猫には餌をやるような、現在では全くの馬鹿野郎な部類に属する手合いではございますが、それはたまたま時代が流れて過去の文化、常識がかわっていっただけのことであって、ご心配なさらずとも、今の文化、常識も、令和が終わる頃には古く、間違ったものとなっていることでしょう。

 

そんなのの繰り返しですね。なのでいちいち過去の文化、常識に目くじらを立てて否定するのはもはや滑稽なことであるように、私は感じております。こういった考えに対して否定をされることはいっこうに構いませんし、同調を求めてもおりません。ただ、わたしはそう思っている、という思想の自由を主張したいだけのことなんです。

 

なんだか今日もよくわからない話の展開になってしまったのですが、皆様からお代を頂戴しているわけでもありませんので、素人の書いたつたない文章だと寛容な心をもっていただけたなら幸いです。