残念な人
こんばんは。
幻想的な空が好きなわりとロマンチストなふしがある無駄無し屋です。
本日も特に何が書きたいということもないのですが、たまには書いておかないといけないかな、という謎の責任感からこうして書き始めています。
二匹の真っ黒な子猫が庭に住み着いているようです。巷では野良猫に餌をやるのは無責任だと言われてるみたいですが、そんなのは関係ありません。無責任という言葉の本質を突き詰めていくと人間は皆無責任であると言えると思うし、小賢しい正論で理論武装している御仁達には解せない心情というものがあります。
餌を与えるのが正しいなどと言う気は更々ありませんが、餌をやらないのが正しいとも押し付けられたくありません。いいんです。非常識と言われようが、馬鹿だと言われようが。
全てから救ってやることは私には不可能ですが、自分にできることはやっておきたいといった心境です。
猫のためにならない、だとか、周囲に迷惑がかかるといった意見はごもっともなことではありますが、猫が今日一日を生き抜けるといったこととか、周囲はもっと寛容な心を持とうよ、といった観点が存在することも、またもっともなことだと私は思います。
そういったことから言いますと、この世の中で戦争、いざこざがなくなることは、不可能ではないにしろ、かなり、非常に難しい、といいますか、今のままでは不可能だということではないでしょうか?
今のままでは、というのであれば、今のままでなくなればいいのであって、そこをどうするかというところで、急いて事を仕損じたオウム真理教なり三島由紀夫なりはタイミングが早すぎたという見方もできると思うのです。
ところで麻原という人物はとんでもない欲の権化という面が報道のほとんどを占めていましたが、実は能力という面ではすこぶる高いものがあるということも認めざるを得ません。
なのでそれらを統合してからの判断としましては、残念な人、というのが私にはいちばんしっくりとくる表現なのであります。
もちろん、これらの考えはただの私の完全な主観に基づいてのものですので、世間様からしたらとんだ勘違いである可能性は否めません。それでも思ったこと、本心をさらけ出すことに対する快感は、それだけのリスクを背負う値打ちがあるように感じるものですから、こうして思ったことを素直に書いてみるのです。