好きであり続ける為に距離をおく
考え方、価値観というものはそれこそ千差万別十人十色である。
何が正しいなんてのはないこともないが、だいたいにおいてはどの面から見たか、ということ以上のものではない。
と、いうふうにこの浮き世を眺めている。
さて、今日は自分の数ある価値観のコレクションの中から
「好きなものにはあえて適度な距離をおく」
というのについて書いてみようと思う。
とにもかくにも依存という症状を嫌うタチであるからして、人に対しても物に対しても思想に対しても嗜好に対しても、一定の距離をおくことを良しとしている。
遠くから眺めると美しい景色も間近でみると汚ならしく見える。
時々会うから嬉しく思う人間も毎日会えば煩わしく思うことも、それぞれの価値観があるから当たり前のことだ。
なんてこともなきにしろあらず。
自分は好きで煙草を吸っているが、上限は一日一箱までで、それ以上は絶対にない。
それ以上に踏み込むと嗜むを越して依存しているという嫌悪感が生まれてくるように思うからだ。
嗜好品は嗜むもので依存するものではない。
なくてもいい位で付き合うのがいちばんだ。
端から見れば一緒に見えるかもしれないが、嗜むと依存には自分の心の中では明確な一線というものがある。
嗜むの意は程よく親しむのことだ。
好きでいたいからこそ距離をおく。
間合いというのがすこぶる重要である。
なんでもそう。
だと思っている。
適度な間合い、距離感がよりいっそう対象を魅力的に映し出すし、事実そのほうのが効果的だ。
そんな 適度な間合いにおいて付き合う全てはそうそう毒となるものではないし、嫌悪感も生まれはしない。
ここで少し話を脱線させてゆく。
自分は別段嫌いな人間はいない。
嫌いなところがある人間はいるがそれはその嫌いなところとは付き合わなければいいだけの話であって人格全てを嫌ってしまう必要はないし、そんな人間にも愛すべきところをもっていることがほとんどである。
ただ単に思慮の浅い嫌悪を抱くのは愚かなことだ。
嫌悪を抱くのにはその対象の本質を知っている必要がある。
本質を知らずに表面的なところだけを見て判断するのは時と場合によってはたいへんな過ちとなる危険性を孕む。
話を戻そう 。
適切適度な距離間合いを保つということは付き合いの極意だと自分は思っている
適度な距離といっても色々とあって、それは頻度のことでもあるし、踏み込みの深さでもあったりする。
自分の場合はつい深く踏み込んでしまいがちな傾向にあるので頻度によってそれを調整するのたが、頻度を回避できないタイプ、状況の人間は踏み込みを少し浅くすることで解決することもある。
しかしそういう間合いについてはあくまでも通常運転時の時の為のものであって、いざという時には接近戦にて肉弾戦を展開していくことも視野に入れておかねばならない。
付き合うものを益とするのも害とするのもその距離次第であるからして、自分にとってちょうど良いところを保つという意味での距離をおくという価値観のコレクションを今日は一つ紹介してみた。