認める猛者か、認めない幼稚なる雑魚か。
自分の落ち度を落ち度として認められない人間は幼稚である。
自分が未だ未熟だということを認められない人間は雑魚である。
こうした言葉を冒頭にもってくるのにはそれなりの訳がある。
世間じゃ成り立つの意味を知らずに成り立ってもいないのにそのつもりな人間がゴロゴロ。
会社の社長のような組織を束ねるべき人間でさえもそんな感じなのがチラホラいることには驚く。
騙し騙し無理矢理まかりとおすのにはいつか限界がくることを悟らなければならない。
精神的な成長というものは自分がこの世を去る時まで必要なものなのである。
と、まぁそんなふうに思うわけなんだけどもね、
「何を偉そうにっ!じゃあそういうお前はどうなんだ」
と言われればこれが幼稚でもなければ雑魚でもないんだな。
なぜならば自分の落ち度はちゃんと認めるし未熟なのも自覚してるから。
未熟であることは恥ずべきことでもなんでもない。
落ち度を認めることは負けとは違う。
これまで書いてきた文章にも未熟さが滲み出るようなのもある。
が、書かないと成長はできないとの判断に基づきこうして書いているわけなのである。
今、このページをここまで閉じずに読み進んでくれている読者の中には雑魚も幼稚な人間もいないことだろう。
誰かの、この場合でいうと無駄無し屋の主張をそういう見方もあるんだなという見方でこの文章を読んでくれていることと思う。
ここはブログだ。本来個人の主張なんてそれ以上でも以下でもない。
虚勢をはるのは雑魚には効果的でも猛者には非効果的である。
巷の猛者たちと渡り合うには素直な心で対峙するのがベストだろう。
猛者とはなにも北斗の拳にでてくるラオウのような人間のことではない。
落ち度、未熟さを認められる人間のことを指して猛者という。
例えば自分が煙草をやめられないことに対して
「いや、ニコチン中毒でね、やめられませんわ(笑)」
などと潔く認められる人間は猛者であり、
「やめようと思ったらいつでもやめられるんだけどね」
などと言いながらその実、ないとシケモクにでも手をかけるようなのを幼稚な雑魚と言う。
同じシケモクに手をかけるのでも前者と後者とではわけがちがうのである。
人間はその人生において最低2回は脱皮しなければまっとうな暮らしを送ることができない。
と、思う。
脱皮は何回でも可能だが、最低限いらぬ悩みをもつことなく生きていくのに必要な回数は二回。
それ以上はもはや道楽といってもさしつかえはないだろう。
未脱皮の雑魚か、2回の脱皮を経験した猛者か。
できることならばスルリとこの世の中をスムーズかつリズミカルに歩んでいきたいものである。