怒ることも辞さない覚悟で気づかせるのが自分の仕事
自分は元来平和主義者であり、和をもって尊しとする人間である。
短気な気質ではあるが揉め事は御免だ。
なにしろ時間と労力の無駄でしかないからな。
ところが、である。
自分は今、無駄無し屋という屋号を掲げて一般的な理解の範疇を越えた動き、つまり仕事に精をだし、その仕事によって和を以て尊しとする思想を思想で終わらせることなく現実的に体現してやろうと虎視眈々と狙っている、というような感じで日々を真剣に生きている。
その無駄無し屋、という組織だかグループだかなんだかカテゴライズするのに難儀するものをまとめるのが自分の仕事であるのだが、その無駄無し屋には別段これといった方針というものはないのだけれど、一つだけ、方針というものに近いものがあることはある。
それはメンバーそれぞれが、自分の持っているポテンシャルを最大限に発揮する、ということである。
今集まっている人間たちのポテンシャルは高い。
驚くべき能力をもつ者もいる。
しかし得てしてポテンシャルの高い者は癖もつよい。
その癖がうまくやらないと邪魔になってしまい、せっかくのポテンシャルに埃となって覆い被さってくるのである。
埃を被ったポテンシャルの輝きは鈍い。
その埃のせいで世に本来の輝きを披露することなく埋もれていったハイポテンシャルな人間なんていくらでもいるだろう。
彼らは残念なことに気づかずに終わっていったのだ。
自分で気づくこともなく、また他人に気づかせてもらうこともなく、高いポテンシャルという素晴らしい道具を宝の持ち腐れのままにしてしまったというしかほかに形容のしようがない。
非常に勿体ないことである。
自分はこの無駄無し屋の趣旨に賛同し集まってくれた人間たちにはそういう残念な結果に至ってほしくない。
それは単にその人間の為を想ってなどという下手なお節介などからくるものではなくて、彼らが成長すれば彼らは得だし、またその彼らの得により自分も得をするものだという、すこぶる合理的な考えに基づいた純粋な想いである。
その為に自分にできること。
それは一つしかない。
それぞれに気づきを与えることだ。
集まってきた人間たちは人のいい人間ばかりだ。
それはある面ではよく働くが、違う面では悪くも働く。
仏教という宗教に不動明王という設定がある。
これは単刀直入にいうと怒ることで救える場合があるということを表しているものであると自分は解釈している。
今のこの世の中の風潮においては上司に怒られると、やれパワハラだとかなんとか言うて怒ること自体を悪とする流れがあるみたいであるが、無駄無し屋内においては治外法権であり、そんな風潮は通用させない。
自分がこの無駄無し屋でできる仕事といえば、それぞれのポテンシャルに被っている埃を取り除くこと。
それ以外はまったくの役立たずなめんどくさいだけの自己中心的な社会不適合者といっても差し支えのない人間だとの自覚がある。
だから怒る。時と場合によっては。
仲間を怒るというのは辛いものだ。
ハッキリ言って嫌な仕事である。
しかし、誰かがやらねばならぬのならば、嫌な仕事を率先してやるのが首謀者としての務めであるというふうに思っている。
怒る前というのはそれは迷う。
しかし決断し実行しなければ道は開けない。
勇気一つ持ってこの自分に与えられた仕事を全うし、和をもって尊しとなすを体現したい、とかいう願望ではなく、体現するのである。
この文章は上手なものではない。
大賞に選ばれれば20万円の賞金とのこと。
あれば助かるのでこうしてこの文章を書いた。
20万円ください。
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