よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

化粧と演技で死ぬまで通す

散歩が好きで毎日歩く。

最近、スニーカーを新調した。グリーンの鮮やかなニューバランス。

履き心地、デザイン共に気に入っている。お気に入りを身につけて歩くのは散歩をよりいっそう愉快なものにする。

歩いてる最中にもチラチラと足元に目をやり、「ムフフ」と一人心の中でほくそ笑むこともしばしばである。このように自己観察をしてみると、なんとも不気味な感があるが、これは黙っていれば他人には伺い知れぬことであるので、まぁ良しとする。

この程度であれば、少しばかり自分で「気持ち悪いな」と、苦笑するくらいのことで、特に弊害というものはないし、寧ろ散歩が更に楽しくなったという点で、大きなメリットであると思って差し支えがないレベルであろう。すこぶる健全な営みなのである

 

ところで、他人、社会に見せる自分というものは、ありのままがいいという説もあって、これには自分も賛成したいところではあるが、この言葉に全幅の信頼を寄せて、本当に全てをありのままに見せたとしたら、とんでもないことになるであろうことを危惧する向きもなきにしろあらずなのである。

たとえば極端な話、服を着ることが本当は煩わしく思っていて、できることならば裸で快適に巷を闊歩したいと思っていたとしても、現実にそれをやってしまうとアウトの判定が下されることは想像に難くない。もれなく犯罪者の烙印を押されてしまうことになるだろう。

だから致し方なく、開放感からはほど遠い、窮屈この上なき布やナイロンを身にまとう。という人もいるかもしれない。

人間なんて、そもそも変態で自分勝手でズルい生き物である、というふうに自分は勝手に思っている。ただそれを理性という手綱でコントロールすることによって、社会の中で常識人としてやり過ごしているに過ぎないのだとも想像する。

ありのままでいることはいい面もあるけれど、それは人前にさらけ出してもいい部分に限ってのことで、人間には決して人前にさらけ出してはならない部分というものも、備わっているのではないかと思っている。少なくとも自分はそうである。

だから女性が素顔の上から身だしなみとして化粧をするように、人前に出ていくときは自分のありのままの性質に化粧を施し、いらぬ誤解や衝突を避け、円滑な人間関係を築くことを心がけている。

化粧で素顔を隠したならば、こんどは役者になるのである。

演じることは慣れれば誰でもできるようになる。事をうまく運ぶ為には演技は不可欠なのである。

誰でもはじめは大根役者からのスタートとなるが、最終的には千両役者を目指して日々精進していくことで、うまく世渡りができるというものである。

時には聖人のようにふるまい、時には鬼の面をかぶり、時にはどうしようもない愚か者を楽しむ。

それぞれに使い道がある役柄である。

 

ありのまま、というのはノーメークノーガードの非常にリスキーな戦略であるように思う。

場合によっては、他人に不快感を与えることもあるだろう。もちろん、全面的にありのままを否定する気はない。ありのままを求められている場面ではありのままでいることが最善だ。

しかし、日常で一個人のありのままが求められる場面というものは、自分の知るかぎりそうあることではない。

本音では化粧が嫌いなOLがいたとしても、きっと毎日せっせと鏡の前にて不本意にも素顔を隠すのに時間を割いてから会社に出勤しているのではなかろうか。

そうすることで、色々と面倒を回避することができる。

化粧を施し、役者になる。これは自分が実践している、いわば処世術の一つである。

そうすることでうまくことが運ぶし、はじめは演技、化粧にも抵抗感があったが、今では逆にそれらを楽しんでいたりもする。自分にとってはいいこと尽くしな戦略となった。

本当の、素顔の自分は一人の時で充分満喫できる。その為には一人になれる空間と時間を用意する必要があるが。

死ぬまで誰にも素顔、本性を見せずにいこうと思っている。

そうすることが身だしなみだと考える自分はおそらく変態なのであろう。