感覚で書く
こんにちは、無駄無し屋です。
横着にも布団の中に潜り込んで横になってからこの記事を書いてます。
暖かいし楽でいいですね。
一回こういうのに味をしめてしまうと癖になっちゃいそうなのですが、それならそれでもいいかと思ったりもしています(笑)
さて、今日は何について書こうかということが、実は今この時点でもまだ決まっておりません。
まあ、これから続く長い執筆道の中には、こういうこともままあるであろうという予想は容易にできるので、ここはひとつ、あえてお題を決めることはせず、行き当たりばったりの何処へ向かうのか自分でも分からないスリリングな文章にチャレンジしてみるのもいいかと思いました。
実は、僕はこのブログといういわば公の場での執筆のほかに、分厚い日記帳にも毎日、こちらは手書きでですがいろいろ書き込んでいます。
その日記は、去年の五月から初めて今日まで一日も休むことなく今のところは続いています。
大体日記というものは、その日の晩に、お風呂にも入ってあとは寝るだけ、という段階で今日一日を振り返りながら、出来事なり、感想なりを書き込んでいくのが一般的だと思うのですが、僕の場合は書くのは早朝、起きてすぐ書き始めます。
なので、内容に今日の出来事という選択肢はありません。
いつでも、今日のこのブログの状況と同じ状況で、書き始めるんです。
これがたいへんおもしろく、何を書くかが決まっていないということは、何を書いてもいいということでもあるので、むしろ楽でさえあります。
ただ、もちろん何を書きたいのか決めて書くより、文章としての完成度は低くはなりますが。
即興という感覚。
おそらくこの文章もあとから読んでみたら、おかしいところが多分に見つかるとは思うけれど、こういう即興的な書き方においては、そのおかしさも味の一つとして見るので、誤字、脱字はあとでチェックしますが、内容にはあえて手を入れません。
作品なんですよね、言語の。
今日この文章を書きはじめた時には想像もしていなかった内容が、こうしてその瞬間の閃きだけを頼りにキーボードを叩いて文字として起きてくる。
こういうのも楽しみかたの一つとしてアリだと僕は思ってるんです。
ただの自己満足だろというような突っ込みが入ってきそうですが、まさしくただの自己満足です。
ブログには、誰かの為になる記事を書くのが良いというふうなことをネットで読んだ記憶があるけれど、その誰かとは自分であってもいいんじゃないでしょうかね。
それにどんな記事、ことばが誰かの為になるかは考えてもはっきり言ってわかりません。
たとえ自己満足で書いた記事でも、誰かにとっては素晴らしい一言が入っている可能性は充分にあると思います。
僕が10年前に行き詰まった時に、気づきを与えてくれたのは、偉い人が書いた書物でも、人生経験が豊富な先輩の言葉でもなく、ビルに大きく張り付けられていた、感謝という文字が書かれた看板でした。
看板は僕に気づきを与えるためにそこに張られていたわけではないでしょう。
そんなもんだと思います。
とにかく、なんでもいいから言葉を詰め込みさえしとけば、誰かの為になる可能性はゼロではありません。
それが、ネタがないからと、なにも書かなければ可能性は完全なゼロになってしまいます。
ちょっといいところだったんですけど、晩御飯なので今日はここで終わりにします。