よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

図書館で実感したタイトルの重要性

今日は一日雨だった。

昼を過ぎて図書館へ行った。

 

これといって読みたいものがあった訳ではないけれど、まぁ暇だったもんで足を運んだ。

いつも思うが図書館というやつは金はかからんし、本など一生かけても読みきれんほどの数があるしで、自分にとっては最高の場所の一つである。

 

ずらりと並んだ本棚の前に立つ。

すると今日に限ってあることを実感してしまった。今更ながらに。

どんなことを実感したのかといえば、こんなことを実感したのである。

 

並んである本を見て、まず最初に目につくのは作者の名前とタイトルだ。

ある特定の作者をめがけていく時には、勿論その名前で探す。

しかし今日のようにそうじゃないときの判断材料といえば、残されたのはタイトルしかない。

 

自分の興味をひくようなタイトルを目にすると、つい手が伸びる。

もうこれは本能に訴えかけられているようなものだ。無意識的とさえ言える。

本棚の中の本は背中しか見せていない。

閉じられているのだから内容なんか分からない。

その閉じられた本を開かせる為にタイトルは背中一面に所狭しと印刷されている。

一応は手にとってパラパラとページを繰ってはみるものの、興味をそそるようなタイトルの場合には、よっぽど失望するような、はしがき、まえがきでない限りはそのまま借りることになるパターンが多い。

 

つまり読ませるという勝負においては、すでにタイトルで勝負が決まってしまっていた。

ということを実感したのである。

 

これは今自分が熱心にやっているブログにもそのまま当てはまることだ。

本だろうがブログだろうが、文章であることにかわりはない。

文章の良し悪しを決めるには、まず読まないことには始まらない。

その読んでみようという気を起こさせるにはネームバリューかタイトルしかない。

ネームバリューがない無駄無し屋という全く無名の片田舎のいちブロガーが、見知らぬ誰かにその駄文をなんとか読ませようと本気で思うのならば、

 

タイトルしかない!

 

と、図書館の本棚の前で、唐突に、さながら悟りの如くに、このごく当たり前の事実をはじめて実感として享受するに至った。

そういうふうな実感を得てから自分のブログ記事のタイトルをあらためて見返してみると、なんとも雑な感じがして、

「これは改めないといかん」

という反省の念が沸々と沸き上がってきたのは喜ぶべきことである。

骨董業界に一時出入りしていたときに、

骨董品の価値は中身半分、箱半分。ということを聞いたことがあった。

こういうのは全てに通ずるある意味真理なんだろうなぁ、と今となっては理解ができる。

タイトルをないがしろにしちゃいかんね、と今日からタイトルにもう少し時間をさいて熟考していこうと心に誓って、一冊の本を借りて図書館を後にした。

 

いや、タイトルが大事だということは、頭ではわかっていたんだけれども、どうも実感というものが沸かないうちは、駄目なようである。

因みに今日タイトルが気になって借りた本はこちら


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まだ読んではいない。