蜘蛛の糸を読む
今日なんか春のような陽気でしたねぇ、ここ瀬戸内海あたりではそんな感じでしたよ。
部屋でゴロゴロしながらくつろいでいたんですが、どういうわけか唐突に、昔誰かから聞いた話だったか、なにかの本で読んだのかさえ思い出せない「蜘蛛の糸」というタイトルの物語のことが気になりだしたもんですから、頼れるGoogle先生に問い合わせてみたんですよ。
さすがは先生、即座に答えを返してくれました。芥川龍之介が書いた短編小説だとの回答を。
これには少々意外な感じを受けましたがね。なにがどう意外だったのかは書きませんが、とにかく意外という感情だけが頭一つ飛び抜けておりました。まさかの芥川でしたね。
まあそんなことはどうでもいいことで、作者が判明したからには図書館にいくよりほかは選択肢にないと睨んで、さっそく徒歩20分のところにある図書館に向かうことにしたんです。
道中、蜘蛛の糸がどんな話だったのか思い出してみようと試みたんですが、如何せん断片的に、地獄に蜘蛛の糸が降りてくる、ということと、結局主人公は助からない、ということくらいしか思い出せなかったんですよ。
そうこうするうちに図書館に着いたんで、さっそく日本文学のコーナーに向かうとありましたよ、芥川龍之介の文学全集が。
本を開いて目次に目をやり、蜘蛛の糸が掲載されていることを確認してから借りて帰ったんです。
早速読んでみたところ、これまた意外なほどに短い内容でした。
要するにカンダタという悪人に対してお釈迦さまが蜘蛛の糸を垂らして救おうとするも、自分だけが助かりたいというありがちな煩悩を発揮したおかげで糸がプツリと切れてしまい、結局元の木阿弥となってしまう、という話なんですねえ。
たしかこの話をはじめて知ったのはまだ小学生の頃だったんじゃないかなぁ。
その時はおそらくこの話に対して深く考えてみようなんて夢にも思うことなく聞き流し、或いは読み流したんじゃないかと振り返るんですがね、今になってこうして読み返してみるとわりと興味深いことが書いてあるんですよ。
カンダタが生前、蜘蛛を助けたからその因果によって蜘蛛の糸が自分の頭上に降りてくる。
これなんかは悪い人には救いとなる話ですよ。私欲の為に人殺しまでしたカンダタに対しては些か甘すぎるんじゃないかとも思えますがね。
次にその救いの糸をせっせとよじ登ってる最中に、下を見ると他の奴等も上ってくるのを確認する悪人カンダタ。「この蜘蛛の糸はおれのものだ、お前ら降りろ」などとわめいた瞬間に、蜘蛛の糸は切れ、彼もまっ逆さまに堕ちて行く。
これはどうなんですかね、もしカンダタが寛容な心を持っていて、「よしお前らも登ってこい、一緒に助かろうじゃないか」などと仏心を出していたとしたら蜘蛛の糸は切れなかったんでしょうか。
僕なんかは個人的な意見で言わしてもらうと、どっちみちカンダタは助からない運命だったような気がするんですよ。蜘蛛を助けたといっても、自分が踏みつけて殺してしまおうとしたのを思いとどまったに過ぎず、それに対して犯した罪は盗み、殺人、放火ときている。
蜘蛛は普通にしてれば死ぬ運命にはなかったわけですよ。蜘蛛を見つけたカンダタが無意味に殺してしまおうなんて思っただけの話で、それを思いとどまったというのは助けたとは言えないだろうと思うんですね。
カンダタに殺された人も死ぬ運命にはなかったのにも関わらず、カンダタの私欲の為に命を奪われた。
この罪に対して、救われるほどの善行をそもそもカンダタは行っていないように感じるんですよ、僕は。
それでもさすがにお釈迦様は仏様だけあって、カンダタが地獄で罪を後悔し改心したのではないかとの一縷の望みを託し、蜘蛛の糸を垂らしたんじゃないでしょうか。
しかし結果は残念なことに、カンダタは自分さえ助かればよいなどという仏の教えに背くような主張をしてしまった。
結局、自分さえよければ、という考えのもとに盗みを働き、家に火をつけ、人を殺めたわけであり、この部分が悔い改められていない以上、助かってはいけない人だったんじゃないかと感じたわけなんですね。
ことの一部始終を見ていたお釈迦様は、悲しそうな顔をしながら歩いて去ったとありますが、
「やっぱり駄目だったか」という思いだったのかもしれません。案外あっさりとその場を後にしていますから。
助からないものを助けようとしても無駄という、一見冷たいようにも感じられるが、それも真理の一つであるということを表しているのかどうかはわかりませんけれどもね。
これらは僕がこの話を読んで抱いた感想であって、違う人が読んだらまた違った感想があると思いますよ。
なんで突然この物語を思い出したのか。
しかし今日はなんだかいい日な気がしましたよ。満足。
全然関係ないことだけど、たしかドラクエ3にカンダタという名の盗賊が出てたような…