よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

運気を上げるには陰徳を積むに限る


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陰徳(いんとく)あれば陽報(ようほう)あり

という言葉がある。

意味は大体、人知れず良い行いをすれば良いことが起きるといったようなもの。

これは精神世界でもあり、オカルトであり、非科学的な言葉である。

これを実験してみたことがあり、効果を認められたので、今でも実践しているお勧めの行為だ。

 

人知れず良い行いをするということは、たとえば他人に親切にしたとしても、それを気づかせないように行っているので、お礼も感謝されることもない。

これでは面白くないと本音では思う人も多いのではなかろうか。人間とはそういうものだ。

いや、自分はそんなことはない、と思った人は素晴らしい。既に仏である。

自分なんかは俗物の中の俗物なもんで、なんぞメリットがないと良いことなんかできやしない。

 

そこで考えた。

 

相手の為だと思ってるから見返りを求めなければ辻褄が合わないんだ。

これを自分の為だと思って行えば見返りを求めずに済むじゃないか、と。

 

インドのお布施にバクシーシというものがあるそうな。

道を歩いていると、恵まれない人達が金品を求めてくる。

この時に、彼らに施しをするのだが、施しをする側の心持ちとして正しいのは施してやったとかいうものではなく、施させてもらってありがとうというものであるらしい。

 

親切をしたほうがありがとう、とお礼を言う。

これは自分がバクシーシといういわゆる徳を積むことができて、自分の魂に良い栄養を与えることができたことに対するお礼のありがとうなのである

 

貰ってくれてありがとう

これこそ徳の真髄ではなかろうか。

 人に気づいてもらう必要もない。

物だろうと金だろうと親切であろうとである。

 

というふうに考えることができてからは、陽の目を見ることなき善行に精をだすことが喜びにさえなった。なぜかどこからともなく自信も沸いてきたのは想定外なメリットだったね。

 

自分には散財するような金はない。

金はないが、客人をもてなす時にはできる限り、思い付く限りの準備はする。

ほんの些細なことが多いので、相手に気づかれることはあるまい。

だからいいのである。

 

こういうことを繰り返しているうちに、自分の為だと思っていたのさえ、馬鹿馬鹿しくなり、別に当たり前のことなんじゃないかと思うようになる。

 

誰が見ていなくても、天は見ていてちゃんとそれに見合った恵みを与えるものだというふうに、自分の中で設定をしてからの人生の流れは確実に良くなったという数年間に渡る実験結果をここに報告する。