研究と実験
社会的にはほぼ引退し、素朴で自由な暮らしを手に入れて一年と三ヶ月が経つ。
そんな生活にもこうして二度目の春がやってきた。おめでたい。
この状況の継続もしくは向上こそが、自分の、天の恵みと導きという一種の信仰をより強くしてくれる格好の材料となる。
この暮らしを手に入れて、たかだか一年とちょっとでしかないが、最初に自由を求めてから、そこへ辿り着くまでには十年…、いや、過去を遡る話はやめておこう。
それはもっと影響力を持つようになってからのが望ましい。
うまいこと影響力を持てるといいが。
今とこれから。これしかない。特に今。
ところで自分はよく自分を実験材料にしていろいろな研究をするのが好きだ。
科学的な研究はなにかと金がかかるし、興味のあるジャンルでもない。
興味があるジャンルといえば、マニアックな言い方をすれば精神世界、俗的な言い方だとオカルト、学問的に言えば非科学というようなところが好物だ。東洋人の端くれである。
こういった類いの研究には金がかからないし、寧ろその研究結果いかんでは、直接的に自分の暮らしを豊かにする可能性を存分に秘めている。
現実的なメリットを求めるのはある域に達するまでは良くないことだと思ってた節がある。
しかしそこを突き抜けると、裏の裏は表と言わんばかりにメリットを求めることは良いことだと、ある時から思い始めた。
同じ表を見るのでも、表しか知らずに表を見ている者よりも、裏も見た上で表を見ている者のほうがなにかと都合がいいことは既に自分の研究にて結果が出ている。
インターネットのおかげで知識を得ることには困らなくなった。
しかし自分の興味のあるジャンルにおいては知識は必ずしも有利に働かない。
知識で知ってもそれを実践するのが難しいジャンルであるからだ。
たとえば前向きに生きたほうがいいのは誰でも知っている知識だろうけど、それを実践して生きている人となると、誰でもというわけにはいかない。
たくさんの自己啓発本が出版され読まれはするものの、それを結果を早急に求めることをせず、継続して繰り返し読むなり、読んで知ったことを実践してみるなりを続けられる人は少ない。
頭で分かっただけでは駄目で、実践に伴う実感を通じてはじめて解るということも実践の中から実感したことの一つである。こういうのも研究の結果である。
知識としては知らずとも本能的に心得ていれば事足りることもあるが、本能的にも心得ながら、更に知識も身につけていくことで裏が取れている分、自信は深まるというのも実験済み。
自分の研究、実験内容はなにも特別なものはない。
ごく当たり前な皆が知っているようなことばかりだ。
オカルトといっても別に幽霊の研究をしようとかいう方向性じゃなく、実生活をより良いものにする為の言うなれば実戦的オカルトだ。
ただの理想論のようなものとか、チャクラがどうたらとかには全く興味はない。
生きるためには実が伴う必要がある。
その実を科学的じゃない面からアプローチしてゆく研究と実験が、自分の人生を充実させている。
人間の心とか精神というものは深~く神秘的で魅力溢れる世界だと自分は感じている。
ゆくゆくはそういう実験を詳細に書いてゆきたく思うも、まだどこまでこのブログで表現してよいものか、ほかの人のブログを見ながら思案の最中であり、この国には表現の自由というものが憲法で定められてはいるものの、それを子供のような純粋な心で受け止めてしまうと下手を打ちかねないのでよく考慮しなければならない。
最悪このブログが継続できないようなことにでもなれば本末転倒だ。
事は慎重に運ぶに限るのである。