三流の善よりも、むしろ一流の悪のが好き
こういうことを言うと、変な人だと思われることも想定の範囲内として言わせてもらうと、自分は図々しい人が好きである。
図々しい人。これはこの浮き世において、ハッキリ言って嫌われる人ランキングなるものがあるならば、間違いなくトップ10入りするであろう手合いである。
皆さんも、おそらく、そういう手合いと遭遇したときには、なるべくかかわり合いを持たないよう、それを相手に悟られないよう、細心の注意を払いながらフェードアウトの方向に持っていくのではないだろうか。
それはそうであろう。図々しいヤツというものは、百害あって一理ないと言われる、いわば煙草の煙のような存在であり、フェードアウトという選択はベター、いや、ベストといっても過言ではない。
ちなみに自分は喫煙者であり、今もセブンスターをくわえながらの駄文の執筆中である。
しかし、何故にこの、嫌われ者ランキングトップ10入りし、世間様には百害あって一理ないと称されるこの図々しい人を自分は好きなのか?
それは単純に面白く感じるからである。歪んだ魅力である。
図々しいにもレベル、あるいはランクのようなものがあって、例えるならば、ボクシングでいう4回戦ボーイに値するような、まだ多少遠慮が見え隠れする程度の図々しさには、あまり面白味はないが、これがミドル級の世界ランカークラスに値する、遠慮のえの字も見られないようなのには、ある意味カリスマ性のようなものさえ垣間見れることがある。
これが更に、一撃で局面を打開するような、ヘビー級のチャンピオンクラスにでも出くわした日には、もはや拍手喝采ものである。
中途半端な謙虚さをもって、それを武器にしたたかに立ち回ろうとするような、三流よりも、むしろ突き抜けた図々しさを臆することなく全面に押し出してくる、その方面での一流のほうのが、よっぽど見ていて清々しい。
昔はわりと、そういう愛すべき図々しさを持ち合わせた好人物を見かけたものだが、最近は時代の流れか、表立った図々しさはないが、どこか腹黒い感じがする、あまり面白味のないのが、増えたように感じる。
いままで見てきた図々しい方たちは、相手の図々しさにも寛容であったような気がする。
人間は誰にでも失敗、欠点、間違いが必ずあるものだ。
許し、許されるような人間になりたいし、そういう人間たちと付き合いたい。
変なヤツと思われたって、図々しいヤツが好きだ。