よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

好きという感情ほどつよいものはない。

ブログを更新する前に、まず、自分が読者となっている人の更新があると、それを読むことから僕のはてなブログは始まる。

現在、13名の方のブログを講読中である。

毎日更新する人もいれば、半年ほど放置している人もいる。

個人的な好みでいえば、それが共感できる、できないは別として自分の想い、思想をさらけ出している文章に興味を覚える。

他人の書いた文章を読むということは、人間観察をしていることと等しいように思っている。

書くことも面白いが、読むことも同等に面白い。

 

さて、一通り講読中のブログをチェックしたところで、今度は自分が書く番だ。

ブログを始める前は、もっぱら手書きでいろいろ書いていた。

ある時はボールペン、鉛筆で日記張や、原稿用紙に書き、


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またある時は、筆で墨を磨りつつ、半紙、色紙などに書いてきた。


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それらに加え、今はこうしてキーボードでネット上に打ち込んでいる。

もうありとあらゆる手段を用いて文字を、文章を書いているような感じである。

何故にそこまで書くことが好きなのかはわからない。

まあ、好きという感情は理屈じゃないので、わからなくても構わない。

この好きという感情があるかぎりは安泰である。

好きこそものの上手なれ、という言葉があるように、好きでありさえすれば、研究もするし、努力も苦にはならない。

もともと才能の溢れるような人はまた別であるが、僕のような凡人であれば、例えばこのブログ運営の第一目的が金儲けであったとしたら、よほどの意思の強さがないかぎり、途中で苦しくなってきて挫折してしまうのがオチである。

勿論のことながら、残念なことに僕に好きでもないことを2年、3年と続けていけるような強靭な意思力などは備わってはいない。

しかし、幸運にも書く、という行為に対しては好意を抱いている。

極論でいってしまえば、このブログが、皆さんに認められるという芽が出ようが出まいが、それは続ける、続けないという判断において直接の影響を及ぼさないのである。

そこが自分の強みである。

好きという感情はつよい。

人間は、というかこの地球上の森羅万象は、老いて朽ちてゆく、というどうやっても自由にならない宿命というものを背負って生きている。

そういう宿命の中で、せめて生きている間は好きなことに没頭する自由は与えられるべきではないか、と思う。

仕事が好きならそれでいいし、そうでないなら好きな趣味に没頭する。

趣味がないなら、好きな人でも、好きなライフスタイルでもなんでもいい。

とにかくなにかを好きになることは、生きていく上で大事なことであるように思う。

時を忘れるほどの時を、どれだけ過ごすことができたかが、僕の人生での幸せのバロメーターだ。

苦痛は長く感じ、幸福は短く感じる。

熱中していて、気づけばあっという間だった、という最後を迎えたいと常々思っている。