よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

自分の設定

自分流、見つけ、磨く。

これは昔、自分で考え、心の奥底に刻み付けた、いわば座右の銘だ。

 

当時、書道に凝っていた。まあ、今でもであるが。

半紙に筆で書かれたこの文字は、今でも部屋の壁に貼られている。

やっているのは習字ではなく、書道のほうだ。

車で走っている最中に、何を思ったか、突然文房具店にハンドルをきり、書道道具一式を買い求めた。

工業高校中退という、およそ文字を書くことには縁がない人生を送っていたもので、筆を持つのは、小学生の時以来のことである。

まず、どういう道具が必要なのかも分からなかったので、店員に声をかけ、

「書道に必要な道具一式が欲しい」と、率直に伝えた。

 

それからは、なにかにとりつかれたかの如く、一日6時間ほど、ただひたすら書いていた。

それだけの時間を毎日書きっぱなしなもので、消費する紙も期間に対して異常なほど多い。

なので、頻繁に通う文房具屋の店主と親しくなるのも、ごく自然な流れだった。

親しいと言っても、和気藹々な雰囲気になることは十中八、九ない。大体が口論だ。

店主というのが、まあ口の減らない講釈たれのババァで、年の頃は82、3であったと思う。

この店主がある時、「あんたが書いたものを見せてみい」と、いうので見せた。

するとそのババァ、言うに事欠いて「あんたが書いた字は草書でも行書でも楷書でもない、ただの我流だ」ときた。

「なるはど。じゃあ婆さんが書いたものを見せてくれんかね?」と僕。

婆さんは壁を指差し、「あれじゃ」と言った。

「ほう、上手いこと誰かの字を見て真似た、ちいと習字をかじったようなのが書きがちな平凡な字じゃの」と僕。

「やかましいわ!」と婆さん。

まあ、こういう親しい間柄だ。

しかし、文字に求めるものは違えどその向き合う姿勢に対しては、お互いに敬意は払っているところで、なんとかこの関係は成り立っている。

 

話を本題に戻そう。

この「自分流、見つけ、磨く」という座右の銘を、心に刻んだ時から自分というものを自覚するようになった。

自分がどういう性質で、どういうものを好み、どういう武器を持っているのか。

そういうことを真剣に考えた。

まず、負ける喧嘩はしたくないという性質。

次に、整ったものよりも、少々いびつなものが好み。

そして、最終的には開き直ればよいという懐刀が頼りになる武器。

 

これらは過去を遡ってみて、起こした行動、事実から掘り出してきた。

自覚がないよりも、あった方のがよりそれらに磨きをかけることができる。

 

負ける喧嘩をしないためにタイミングをはかり、用意周到かつ油断大敵。

いびつなものを好むがゆえに、師というものは持たぬと決まる。

開き直り、という武器を懐に忍ばせているからこその落ち着き。

 

自分の場合は、こういったところを磨いていき続けることで、自分流が完成していくのだと思っている。

突然のカミングアウトとなるが、「天とは、自分に見合った恵みと導きを与えるシステムだ」と、本気でそう思っている。

根拠は説明しようと思えば400字詰めの原稿用紙が何枚になるか分からない程長くなるので、ここでは書かない。

この、自分に見合った恵みと導きを、より良いものにするために、自分流を磨いている。

死ぬまで磨き続けるつもりだ。

こういうことに関しては、誰にも共感は求めない。

ただ、自分はそう設定している方のが人生がうまく運ぶというだけのことなのである。