よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

瞑想という習慣について

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おはようございます、無駄無し屋です。

今日は瞑想について書いてみようと思います。

僕が瞑想というものを知り、実際に始めたのは今からちょうど10年前です。

始めるきっかけのことを書くと長くなりそうなのでここでは書きません。

そのうち機会があれば書いてみようとは思っています。

 

10年前、瞑想を始めてみようと思ってからまず最初にとった行動はというと、本を買うことでした。瞑想について書かれている本です。

その本の冒頭の部分にはこのようなことが書かれていました。

 

瞑想は私達の心を扱う行為だけに、一つ間違えると怪しげな方向にずれてしまう危険性をはらんでいる。

この一文を読んだ時の率直な感想といえば、とても魅力を感じた、というふうに当時を記憶しています。

危険性をはらんでいるということは、それをうまく掻い潜りさえすればそれに応じたメリットが必ずある!と考えたからです。

博打にしてもビジネスにしても人間にしても、魅力を感じるのはハイリスクハイリターンなものであることは否めません。

可もなく不可もないものに、僕は魅力を感じていませんでした、当時は。

とにかくその本を一通り読んでみたのですが、書いてある内容が実感として心に響いてくることはありませんでした。

そして次にとった行動はというと、禅寺に行き、座禅を経験してみるというものでした。

これもいまいちパッとしたものはありませんでした。

 

それから家に帰ってよくよく考えました。

その結果、とにかくなにもわからなくても自分なりにやってみる。

という至ってシンプルな答えに辿り着いたんです。

 

座禅やヨガによくあるポーズをとってみたりして、暇を見つけては座っていました。そんな感じで特に成果というものを自覚することもなく月日は流れて行ったんですが、これは白から黒へというハッキリと分りやすい感じではなくていうなればグラデーションのような、曖昧ないつの間にかという感じで瞑想をしているという自覚が芽生えていたのです。

 

その自覚が芽生えた時は座っているときではなく歩いているときでした。

 

それからというもの、形には囚われなくなり、歩いていても、仕事をしていても、静かな所でも、例えばパチンコ屋のような騒音だらけの所でさえも、瞑想というチャンネルに合わせさえすれば瞑想中になるようになったのです。

色々と面白い体験ができました。

瞑想にも浅いものから深いものまであって、深まっていく途中ではイメージの中に議論を交わしている二人の自分がいて、更に奥の方でその議論を眺めている三人目の自分(これが本当の自分)がいるわけです。

ほかには、これもイメージの中での話なんですが暗闇の中に色んな扉が現れてきました。その扉の隙間からは神々しい光が漏れているものもあれば、どす黒い黒煙のようなものが漏れているものもありました。

 

これらの扉を次々と開けては中の世界とそこの住人達を観察していく途中で、はじめて最初に読んだ本に書かれてあった危険性というものを認識できた気がしました。

しかしこれ等の体験はあくまで手段の過程にすぎず、瞑想の目的とは

人生を全う、完全燃焼させる為の知恵を得てそれを実践すること

に尽きると思います。

 

かつての僕は可もなく不可もないものには共感できませんでしたが、色々な扉を開けて色々な世界を覗いるうちに、なるほどな!と、共感できるようにいつの間にかなっていたということだけでも、瞑想が僕にとって有益な精神的行為であると捉えて差し支えないといった感があります。

特別なものではなく、ごく日常的なものとして、軽く泳いだり、深く潜ったりと、状況に応じて臨機応変に10年続けていること。

継続は力、ということも教えてくれましたね。

だから今度はこのブログを根気よく続けていき、自分なりによい記事を投稿できるようになっていきたいですね(笑)

まぁこの記事を書くという行為自体も瞑想法の一つなんで、続けることには自信があるのが強みです(*・ω・)

 

ということで今日はこの辺で。