悟りとは、小さな気づきの集大成である
おはようございます、無駄無し屋です。
今日は気づくということについて書いてみようと思います。
人類は気づくことから進化、発展を遂げてきた生き物だと言えるでしょう。
仏陀は真理に気づいた人であり、ニュートンは万有引力に気づいた人らしいです。
一般的に悟りといえば、このようなすこぶるスケールの大きいものに対して用いられる言葉のような感がありますが、要するに悟りとは気づきのことであり、その気づきは偉人の元にしか近寄ってこない特別なものなんかではなく、我々凡人の元にも日常的に、まるで回転寿司のように手を伸ばしさえすれば掴むことができる身近なものなんだと思います。
勿論、寿司にも高級なものから安価なものがあるように、気づきにもグレードというものはあるのでしょうが。
さしずめお釈迦様の気づきなどは大トロといったところでしょうか。
お釈迦様の気づきは美味しそうですね(笑)
しかし値段も張るので、僕の懐具合から考慮すると無理して手を伸ばそうとは思いません。
納豆巻とか安くてうまくて健康的で好きですね。
話がどんどんと逸れていきそうなので寿司のことはこれまでにしときましょう。まぁ関係ないこともないのですが。
例えば昨日はスナックのママをしている古くからの友人と紅茶を飲みながら会話をしていました。
そのママさんは、自分がカウンターの前に立ってお客さんに「笑い」を提供したいので、その為の研究をしているというふうなことを語っていました。
結構なことだと感心しながら聞いていたところ、ふと壁にかかった時計に目をやると、会話が始まってから二時間が過ぎていました。
会話の切れ目を見計らって今日はここまでと切り上げました。
というのも、質のいい会話が続くのは二時間位がピークで、それを越えると集中力の問題から質が低下していくことに、自分が他人とサシで話すのを仕事としている経験から実感としてある時気づいたからなんです。
それに会話の質がいいものであればあるほど、あまりにいっぺんに多く聞くことは個々の内容の理解を量が薄めてしまう恐れもあることを、僕は読書から気づかされました。
人それぞれに読み方があるでしょうが、自分はこれはいいことが書いてあると感じる書物に出会った時は少しづつ、読んでは考え、考えては読むを繰り返して一気に読むことはせず、何回かに分けて読むことにしています。
このように色々と小さい気づきが積み重なり、繋がっていくことで大きな効果が生まれるものなんじゃないでしょうか。
たぶんお釈迦様やニュートンなんかもいきなり大きな悟りを得たわけではなく、取るに足らないようなほんの小さな気づきを大切にし、それらが積み重なっていった結果として大トロとも例えることができるような高級な気づき、即ち悟りへと至ったんじゃないかと想像できます。
いろんな、こうだ!という思い込みが気づきの邪魔になります。
気づいていないことに気づいていないことはよくあることだと思います。
なので気づこうという思いを持ってそのアンテナを日頃から立てておくことが大事ですよね。
色んな、多種多様な悟りがあると思います。
実業家には実業家の。商売人には商売人の。宗教家には宗教家の。
そして僕には僕の。あなたにはあなたの。
今日はこの辺で