厄払い
朝の散歩が気持ち良かった。
朝食にマフィンと紅茶。
どうやら今日も機嫌良く一日が始められそうなことに感謝しよう。
ところが、である。
病んだキングボンビー的blogを目にしてしまった。
危うくそうした負の間合いに引きずり込まれそうになるも、既のところでそのページを閉じ、道連れになることなくこうして書き始めることができた。
お~怖い怖い。
ああいった病んだ言葉を発信して気持ちが落ち着くというのであれば、書き手はよっぽど病的な性質を有したキングボンビーに違いない。
君子危うきに近寄らず、である。
さて、病んだblogのことは捨て置いて、健全なる言霊を書き連ねていこうと虎視眈々と狙っているMr.ポジティブことこの無駄無し屋の駄文に今日もお付き合いいただこうか。
お付き合いしかねるという人がいたらお付き合いしてもらわなくても、別段こちらは困ることもないので、それはそれで結構なことでござんす。
寄ってらっしゃい見てらっしゃい。
おふざけの中にあるシリアスというコントラストが魅力と自称するこのblogが偽物か本物か?
感謝と愛、なんて言葉はまるで聖水のような効力をもっており、悪魔はこの言葉に怯え疑い、嫌悪感を抱き避けたがる。
今、この文章を読んで嫌悪感を抱いたそこのあなた!
あなたはよっぽど心の狭い人間であるか、もしくは悪魔の手先だこの野郎。
揚げ足とろうったってそうはイカの金玉タコが引っ張るってなもんだ。
感謝もできなきゃ愛も知らないなんてのはこの世の中では金は稼げても勝ち組とは言えない憐れな地獄道の餓鬼そのものだ。
法律を守ってさえいれば良い人間だなんてとんだ的はずれな解釈をしているうちは不幸は避けられないことを知ったほうのが得しますぜ?
権利の主張と称して厚かましいことをいけしゃあしゃあとどや顔で口にするような人間性の乏しさでは、短期的な利は手にすることはできても長期的な自然界から祝福されたような幸福に巡り会うことはまずないことだろう。
想像力、というか先を読む力というものが幸福には不可欠だ。
目先のことにしか考えが及ばないのであればそれはそれでしかたのないことではあるけれど、分をわきまえたものを求めるべきである。
もう一度書く。
分をわきまえることである。
間違っても1000円しか持たぬ者がベンツを欲しがってはならない。
まずは1000円で買える中古の自転車を探し求めなさいよ。
と、いうことで感謝と愛がどれほど大事なことか、この記事を読んでわかっていただけるはずもなく、ただの意味不なる戯れ言的駄文であることは書き手の自分がいちばんよくわかってはいるが、まぁとにもかくにもこういうふうに書きなさいとの指令がどこからともなく聞こえてくるものだからしかたがない。
これは今日見てしまったキングボンビー和名疫病神的blogに対する自分なりのお祓いでもある。
この記事を読んでただの一人でも感謝と愛ということについて思いを馳せていただける人があればありがたい。
はぁ、これでスッキリしたので今日も一日愉快痛快したたか健全に生を全うすることができそうな予感しかなくなった。
合掌。