成り行きに任せてあるがままに
植物に水をやるのが趣味の一つである。
動物に餌を与えるのも楽しい。
人にお金を支払うのでさえ気持ちがいい。
要するに何かを与える、という行為は歴とした快楽の一つだということをここでは言いたいのである。
だからどうしたなんて冷めた意見はお呼びではない。
施すことへの喜びを知った時点で人生は明るくなるといっても過言ではない。
施しに見返りを求めるのはご法度だ。
愛と保険は掛け捨てであるというような考え方のもとに立ち回ることによって道は開けてくるものだということをメダカに餌を与えている時に閃いた、などというドラマチック風に見せるための嘘をたまにはついてみてもバチは当たるまい。
寝言は寝て言え、なんて寝言こそ自分が夢の中にいることに気づいていない愚か者の戯言である。
変態と天才は紙一重であり、というよりかむしろ変態になれるポテンシャルをもつ者が力を向ける方向が、たまたま世に認められるところだったというだけの話ではないだろうかと思うと、紙一重ではなく同一だと見なすのが妥当ではなかろうかと思うわけなのである。
だから自分はこの世の中で天才だと言われる方々はもれなく変態だと疑うことなく思っているわけなのだが、どうだろう、見当違いであろうか?
まぁいい。そんなことはどうだっていいんだ。
どうでもよくないのはまだこの記事の文字数が自分の満足のいくところにまでに達していないということだけだ。
何を書いてもいいって言ったってそれはそれで毎日となるとそんなに容易なことではないことを経験者としての立場から切実に訴えたい。
継続していること自体が称賛に値するというような前向きな解釈をすると、もはや記事の内容が肝心などという小賢しい価値観なんぞはどうでもよく、脳内に浮かぶありのままを意味が不明であろうがおかまいなく書き記していくことができる領域に突入していくこの状態を無双モードという。
ここまで書き進んでくるとすでに俗にいう迷子となっていることは否めないが、保育園児の時にはじめて迷子になって泣き叫んだような新鮮な感じはなく、むしろ想定の範囲内として落ち着き払うことができている。
我ながらあっぱれな駄文ぶりである。
しかしまだこの駄文を終わらせるわけにはいかない。
もう一山こさえなくては面目の躍如とはならない。
話を最初の方に戻してみよう。
いや、そんな凡夫の立ち回りに妥協をしてはならない。
このまま突っ走ることでしかこの記事に意味は見いだせない。
たけのこの里が大の好物であるがきのこの山はそうでもないのはあくまでも味についての感覚であって、造形でいうときのこの山のほうに軍配が上がるということもあり、つまり総合力において両者は互角であるという意見にどれだけの人が共感を持ってくれるのかという疑問を持ちながら本日も無事に着陸体制が整ったようなのでこのまま静かに着地点に降り立つことにする。