諸行無常
この日本には素晴らしい四季があると言えたのもいつの間にか過去のことになった感があるね。
近頃は夏と冬の二季と言った方のがしっくりとくる。
こういう現象が人間の自然破壊によるものなのか、単なる自然現象なのかは知らないけれど、とにかく昔の日本は今はもうないのである。諸行無常。
友人の耳が遠くなってきて最近は電話での会話が難しい。
91歳だ。仕方がない。生きてるだけで儲けものな領域である。
飼っている犬はもう家に来て18年。
それまでに野良として数年は経っていた模様。
足腰は弱り、正直いつ逝ってもおかしくはない状態だ。
できるかぎり美味いものを食わせてやりたく思う。
母は73。
気がつけばこんなに年老いていたのかと驚くことがある。
あちこちが痛いと言いながらも今日を頑張って生きていることに感謝の念を抱く。
やれやれである。
自分も年をとるはずだ。
いつの間にかだ、本当に。
しかしそんな自然の摂理をただ哀しんで過ごすというわけにもいかない。
こうして人生なんて夢幻の如くに過ぎ去ってゆくものだとの実感が湧いた時点からが本当の人生の始まりだとすら思っている。
失って気づけるものならば、失う前に気づいたほうのが利口である。
無常感というものをまざまざと見せつけられると何か目が覚めるような感覚を覚える。
その感覚を忘れることなく常に懐にしまっておき、終わりに向かって進んでいく全てをよく味わおうとする姿勢は大事なことではなかろうか。
自分の終わりを想像することはものすごく前向きなことだと自分は思っているのでよく想像する。
愛する者との死別もよく想像する。
それも前向きにだ。
目を逸らしていれば免れることができるのならば、逸らして生きれば良いのであるが、そういうわけにもいかない現実ならば向き合い、受け入れていくしかない。
当たり前に来るその時にうろたえたくはない。
別れには小さな哀しみと大きな感謝で、が理想的だ。
感謝はいつからはじめても早すぎるということはない。
さっさと意識をそういう路線に変更して限りある生を貴重なものと認識し、いつか必ずやってくるだろう終わりの時に余計な後悔をしないですむようにしたい。
始まりが感謝ならば終わりも感謝であるべきだ。
諸行無常。
幸も不幸もない。
自然の摂理。
捉え方で地獄も幾分楽になる。
そういうふうに思いながらこの浮き世を飄々と渡っていきたいものだと考えているが果たしてどうか…
夏はもう近い。