よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

人間力を上げる方法

 

自分の人間力を上げたい、と願うのならば、人間力のある人間と喋ることである。

 

会話というものはある意味で稽古だ。

 

自分よりも劣っていると思われる人間との会話には時間の無駄を感じることがないだろうか?

 

これは建前的な道徳論とかは抜きにした本音のはなしである。

 

例えば黒帯の強い柔道家がいたとして、その乱取りの相手が昨日今日に柔道を始めた素人であった場合には得るものがあるのは素人のほうだけだと思われる。

 

やはり自分のギリギリのところの実力をいかんなく発揮して戦ってこそ、その実力は鍛えられ伸びるというものである。

 

黒帯と白帯との試合は普通成り立たない。

これは人間力においても同じことが言える。

 

成り立つとすればそれは黒帯側が白帯に対して稽古をつけてやろうという意思があるときのみであろう。

 

もしも身近なところに人間力がありそうな人がいたとしたならば、その人間に積極的に近づくことである。

 

相手の年が下だろうが立場がどうだろうが人間力にそんなものは関係がない。

 

そんなものを気にしているようでは人間力は上がらない。

 

自分の方が人間力が下だと感じるならばその人間を勝手に師としてしまい、色々と会話の中で教えを乞うことが成長への第一歩だ。

 

その際に相手と対等に渡り合おうなどという虚勢なんかを張ってしまうとこれは自分が損をすることになるのでやめておいてほうのが無難であろう。

第一それは人にものを教えて貰うことに対して正しい姿勢ではない。

 

会話は実戦であり、真剣勝負の場であり、相手を理解し自分を理解してもらうための大事な営みなのである。

 

本当に実になる会話というものは、そこに余計なBGMなんかはいらないし、時間を忘れて何時間でも継続していられる妖しい魅力で溢れている。

そして終わったあとには心地の良い疲労感がある。

清々しいというか。

 

著者の自己満足により書かれた自己啓発本なんか読むよりは、人間力のある人間と知り合い近づき、会話を通して実戦から学ぶというのがいちばんだ。

 

肌で感じるものがCDではないがライブではある、というのと同じでその人間力というのは本からは感じられない。

 

知識で知るのも大事なことだ、が、肌で感じるということはもっと大事なことだ。

 

自分よりも上の次元でものを言う人間ともしも出会えたならばそれは非常に幸運なことであり幸せなことである。

 

そしてその人間と会話をする機会を与えられたならばそれは千載一遇のチャンスだと解釈してまず間違いない。

 

今の自分の持てる全てを相手にぶつけてみるのもよし、質問を投げ掛けるのもよし、黙って相手の言うことに耳を傾けるのもまたよし。

そこは臨機応変にがよい。

 

自分は常に探している。

自分よりも高い次元でものをいう人間を。

今までそうやって自分の人間力を高めてきたつもりではある。

この先どれくらいそんな人間と出会えるのかはそれは天のみが知るところだとしよう。

 

まずは自分の人間力を高めてゆき、それから自分よりも人間力の低い人間を引っ張り上げてやることに尽力する。

それこそが人類の果たすべき使命なのではなかろうか、その先に人類のあるべき未来が存在するのではなかろうか、なんて大袈裟に話を盛るのもまた方便であり、必要なことなのである。

 

良い話相手を見つけた場合には基本的に一対一で望むのが好ましい。

余計な次元がまぎれこんでくると場がややこしくなる。

仏陀が得意としたのが対機説法だったということがなにかの本で書いてあった。

 

つまり一対一での説教。

 

教える側からしたら、次元の違うたくさんの人間に対して普遍的な正解を出すことは不可能だということを知っているのだから、個別に話がしたいと思うのは当たり前のことだろう。

 

人間力のある人間と出会ったならば、臆することなく一人で乗り込んでゆき稽古をつけてもらい、自らを鍛え、そして自分がしてもらったことをあとの人にしてやるのが人間愛というものであり、誰も損をすることがない合理性をもつ健全な人間としての道筋だと思っているだけでなく実践もしている無駄無し屋なのであるが、まだまだ実力をつけてゆきたいので、乱取り相手を募集中だったりもする感じだ。

 

口は災いの元にもなれば幸福の元にもなることを死ぬまでになんとか証明してみたいもんさ。

運も実力のある奴について回るらしいしね。

 

会話にて実力をつけるという方法。

人間力いう根本的な実力をね。

楽しいよ。