意味不か否か
湧いて来るのか来ないのか。
閃きの泉というやつは気まぐれだ。
そういうところに人生はままならぬものだと感じている。
いつでも自由に閃きの泉からすくい取れるものならば、これほど簡単なことはあるまい。
しかし、そのままならぬさが人生を味のあるものにしていると思わないわけにはいかないだろう。
それが好みの味か、好まない味か。
それだけの問題なのである。
閃きの味は好みである。
試行錯誤は好みではない味だ。
これはあくまでも主観による好みの話であって、試行錯誤の味が好みの人だっていることもそこはちゃんと心得ている。
閃きは右脳的はたらきだと言われている。
試行錯誤は左脳的はたらきか。
両方好めるならばそれに越したことはない。
食事にしたって健康を維持したいのならば好き嫌いなく偏食しないことが定石だということは通説だ。
理想的なのは閃きをすくい、そこからそのすくった閃きをどう料理するか試行錯誤してゆくという進行具合である。
これはバランスがいい。
バランスというのは何事においても大事なことだという主張ならば間違っていない自信があるのでふてぶてしく書くことができるってなもんだ。
バランス以外にも何が大事かっていえばだね。
色々とあるけれど例えば無責任さというのも毒にもなるけれど薬にもなる心の要素として大事なひとつだよね。
過剰な責任感は身を滅ぼすし他人に迷惑をかけることだってあるからね。
本当の自由人というと、究極的に自分の責任を背負い込む説得力をもつ者か、究極的に責任を背負わないいっさい身軽な者かの両極だと思うよ。
鬼の金棒か天女の羽衣かって感じだね。
どちらにしたってハイポテンシャルなことにかわりはない。
バランスよいのは生きやすいけれどもね、あえてバランスを崩すという言わば不完全の美というのもまたオツなものだと思う人なんかはマイノリティなんだろうな。
これはここできちんと説明しとかないといけないことなんだけど、この文章で何が言いたいのか、なんて疑問は持たないでもらいたいんだよね。
こういうのは文章なんだけど文面を理解するというよりも、個なり全体なりのニュアンスを感じとるといった捉え方に対応したものに仕上がっていてとても繊細でいて嘘偽りがないものなのである。
少なくとも自分はそう思っているからこれを読んでくれている人もそう思ってくれるならば喜んでみてもいい。
閃きに変な理屈をつけずに野生のまま泳がせることにしてる。
閃きの放し飼い。と、いうか野良閃き。
試行錯誤ができる頭があったならばまた違ってくるのかもしれないが、幸か不幸か自分にはそんな頭は備わっていない。
そんな頭がないにもかかわらず、一応はこうやって日本語を駆使し、blogで記事を書いて見ず知らずの人たちに共感やら反感やら意味不感やらをいただけるのはありがたいことである。
何が言いたいってわけでもないんだけど、とりあえず書いときたいんだよね。
いいんだよ、意味不でも。
でもどうなんだろ。
まぁどうでもいいか。