書くことの奥深さ
疲れている時にはblog書きははかどらない。
心身ともに充実している時でなければいい言葉が浮かんでこない。
blogを書くという行為は指先は使うけれども肉体労働とは呼ばないだろうが、それでも肉体が疲労していては駄目なことは確かだ。
自分のblogのスタイルは投稿した記事が130を越えた現時点でもまだ定まってはいない。
と、いうよりかは、これは死ぬまで定まるもんではないような気さえしてきている今日この頃である。
そもそも自分の文体というものは精神的な成長と共に変化してゆくのが自然であり、より高みを目指すためにも積極的に変化を求めるべきではないかと思うわけである。
書けば書くほどに味が出てくるのではないか、という期待はしてもいいのではなかろうか。
どれだけの文字をキーボードで打ち込んできたかで書き手のスキルが決まってくると言っても過言であるとは言えないと思う。
文章を書くというのはある面では修練だ。
その修練に必要なのは反復。
つまり繰り返して書いていくことにほかならない。
blogを書き始めて最初は色々と戸惑うこともあったけれど、それが良い記事かどうかは別として、100を越える記事を書いてくると、経験に裏打ちされたそれなりの余裕というかなんというか、とにかくあたふたしないですむのである。
このような心境はやはり続けて来たからこそ得られたものであり、大事な大事な資産であるのである。
この資産をこれからうまく使ってゆき、更に資産を増やしていこうという魂胆だ。
blogで金が欲しいならば、金のことは忘れるべきだ、と他人に強要する気はないが、自分はそういう考え方が性に合っているとみえて金のことは考えないようにしている。
しかしもちろん収入は得るつもりではある。
金が欲しいという欲求はなにも恥ずべきことではないし、むしろ当たり前なことであるが、問題は自分の実力に見合った代価というものをちゃんと知ってそれ以上でも以下でもない適切な代価を得られるかどうかだ。
人は自分の実力に見合っていないものを受けとると、うまくいかないようにできているんじゃないか、と思うわけだ。
身の丈に合ったもの。
たとえば大きすぎる服も小さすぎる服も機能的でないしお洒落にも見えない。
人生経験の浅い若造には身の上相談は務まらない。
カードローン地獄の人間がポルシェに乗ったとしても様にはならない。
大して中身のある記事も書けないのにアクセスを求めるのは盗人猛々しいという形容がしっくりとくる感じだ。
禅寺で修行するのも、こうしてblogを書くのも方法の違いはあれども目指す場所に大して違いはないのである。
まぁそれは真剣に向き合うということが前提でのことではあるけれど。
自分の満足する文章を極めようとするのが小乗仏教、読者を満足させようとする書き方は大乗仏教的であるとも言える。
しかし突き詰めれば自分の満足が読者の満足であり、読者の満足が自分の満足であるからして極めるならば最後は一つに繋がるものと自分はそう信じている。
ものを書くという行為一つとってみてもそれはかなりの深さがあると理解しなければならないだろう。
かといってあまり考え過ぎるのもこれまた毒となるのが奥が深いとする所以である。