それでも世間は無頓着に回ってゆく
昨日の午後に三回小さく
ごほっごほっごほっと咳をして猫は逝った。
苦しむ時間が短かったのが幸いだ。
瀬戸内海の海が見渡せるところに埋めた。
自分の散歩コースなのでいいだろう。
さて、そんな自分の個人的な出来事には無頓着に世の中は今日も回っている。
相棒との死別は寂しいが、だからといって落ち込んでばかりはいられない。
できるかぎり毎日このblogを更新し続けることはもはやただの遊びの枠には収まっていない。
誰かに何かを表現したいのと同時に自分自身への語りかけでもある非常に重要な営みの一つだ。
自分にまざまざと生々しい命の儚さやら、どうしてやりようもない無力感、それから純粋な愛というものを見せてくれた今は亡きあの相棒は、自分に素晴らしいきっかけを与えてくれたようだ。
死別にこんな寂しさと、何かを悟ったかの如くな爽快感という両極端な感情が芽生えるものだとは想定外であった。
これはその最後を看取ったからこその産物だろう。
過去の経験から言うと、その場に居合わせていなかったらこういう感じにはならなかったんじゃないかと思う。
辛くはあったが今は悪くない感じである。
また一つこれでつよくなったね、マジで。
愛する者の死すらただの悲しみで終わらせることなく、自分の心の肥やしにして成長してゆくのが無駄無し屋。
おそらく猫は病気であって短命だったのであろうが、それが不幸なことかといえば必ずしもそうとはかぎらない。
死というものはいずれ誰のもとにも必ずやって来るただ一つのゴールである。
そこまでの距離が長いのか短いのかで幸不幸を判断するのはナンセンスに思う。
長さではなく道中の内容が問題だ。
細く長くもありだけど、太く短くもまたありだ。
生きるということはそれだけで大変なことだ。
そしてその最後を迎える側の修羅場、それを間近でただ傍観するしかない見送る側の修羅場。
もちろん日常には日常の修羅場。
修羅場の連続だよ。この世の中は。
そう思って暮らしていれば、たまに味わえるささやかな安らぎや喜びによりいっそう価値が出てくるよ。
今日も天気がよく風が気持ちいい。
何がどう転ぶかわからないこの人生、今日の一日を実りのあるものにしてやるという貪欲な気持ちで過ごして行こうじゃないか。
感謝と愛
だね。