百戦錬磨の物書きが磨く自分流
苦節三ヶ月とちょいにしてついに百記事に到達した。
一記事一戦として百戦錬磨となったネット上の物書きの飛躍はここから始まるのである。
ものを書くという行為は命のやりとりこそないが、真剣勝負であることにかわりはない。
その真剣勝負を百回もこなしてくればやはりなにか得るものがある。
実戦あるのみ
そう自分に言い聞かせて生きる癖ははるか昔からの言わば教訓のようなものだった。
ただのその場しのぎな文章を書いたことはこれまで一度もないつもりである。
すべてはまずは閃きにヒントを得、そこから丹念に練り上げてきた愛着ある言葉たちだ。
紆余曲折、七転八倒に悪戦苦闘しながらもここまでなんとか辿り着いた今は三ヶ月前のキーボードを叩き始めたあの日を懐かしく思うに至る。
たかが百記事で大袈裟なことを言うようだが、とりあえずの自分の目標を予定通りに達成したことの意味はその事実よりもはるかに大きい。
ほぼ毎日書き続けた自分に拍手を送りたい気分にでもなってしまいそうだ。パチパチ。
継続が力なんだと実感するのは百記事を書き終えたこれからの特権であろう。
さて、自分流というものを百記事までに見つけることに成功した今、これからはその自分流というものを磨いてゆくことが命題であると思っている。
それにはおそらく完成とか終わりはないものだと心得ている。
ここまで来ると後はゆけるところまでということになる。
どこまでゆけるかは自分次第だ。
ゆこうと本気で思い動きさえすればどこまでだってゆけるんだ。
との想いを信念として設定しておいて損はないだろう。
文字にして百戦錬磨と書いたからにはその表現に負けるわけにはいかない。
文字通りか、それ以上でないと格好なんかつきゃしない。
他人にカッコいいなんて思われる必要は必ずしもないが、自分で心底カッコいいと思えないことには何も始まらない。
文章はアートであり、パフォーマンスであり、エンターテイメントでもある。
そして自己との対話でもある。
他人から見たら無意味な駄文であっても自分には大きな意味を持つ傑作であることもしばしばだ。
理想は自他ともに認めることのできる傑作の出現頻度を高めてゆくことだが、これにはまだまだ文章修行が必要だ。
あくなき探求心と向上心、そして好奇心を頼りに一文千金をただひたすらに追いかける。
そして追いつき、追い越し、追いかけてくるように仕向けてみせる。
百選練磨の物書きが磨く自分流、という表現はなかなか格好いいね。
謙遜なんてしてる暇なんかないよ。
I′m egoisuta
強気で前向きな姿勢は崩さない。