感化
小学生の頃にドラゴンボールに感化されて風呂場でカメハメ波の練習をしてみたり、きんとうんを呼んでみたりは今となっては懐かしい思い出だ。
同じ頃、北斗の拳に感化されてある時ケンシロウが敵のハートに対して
「臭い息を吐くのはそこまでにしとけ」
的なことを言ったのを、
「これは使える!」
と、考えさっそく次の日に日頃から気にくわなかった先生に言ってみたところ、強烈なビンタが飛んできてひでぶー的に鼻血ブーとなったのも、また懐かしく、忌々しい思い出である。
感化されるということは影響を受けるということであるが、人間は常に何かに感化されながら進化してゆく生き物と言えるだろう。
間違った感化を受けると先に書いたように強烈なビンタがとんできて痛い目に合うこともあるのでそこら辺は気をつけなければならない。
このブログに書く文章も、公の場での公表であるがゆえに誰かしらに何らかの感化、影響を与える可能性はなきにしろあらず。
できることならば、自分の書いた文章に感化されてビンタをくらうというような痛手を負わせるよりも、何かの役に少しでも立つことを願って言葉を紡いでいくことが、ものを書く人間としての正しい姿勢なのではないかと思うわけなのである。
と、まぁそうは思うんだけどもなかなかこれが難しい。
難しいというのはスキル的なところではなくてメンタル的なところでということだ。
元来性格がねじまがっている自分などはどうしてもそんな他人のためになんて思うことを最優先にすることができない、というよりかは、しようとしない。
まったくの正直に本音で言うならば、自分が一番可愛い。
誰かの役に立とうが立つまいが、自分が気持ちが良いと思えることしか書きたくない。
こういうスタンスの物書きははたして失格なのであろうか。
いや、そうは思わない。
自分のためにやったこと、言ったことが他人のためにもなりうることはすでに経験により学習済みだ。
今、こうして自分のために書いているこの文章も、もしかしたら、ひょっとして、あわよくば、他人のためになるかもしれないという可能性を否定しきれる御仁はおらぬはずだ。
要するに感化というものは、与える側の問題ではなくて、受ける側の問題なのである、ということをこの文章で伝えたいのである。
だから自分が子供の頃にくらったビンタに北斗の拳の作者にはなんの責任もない。
自分がこうして好き勝手に書き綴る文章にもなんの責任ももたない。
感化、影響を受けるのは、受ける側のそれぞれの自己責任であることが望ましい。
したがって悪影響を与えたからといって自分を責める必要もないし、好影響を与えたからといって自分の手柄だと鬼の首を取ったふうにする必要もない。
その心はただ、野に咲く一輪の花の如くなのが好ましいのである。