よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

話を盛るにはスキルが必要であり難しく面白い


f:id:mudanashiya:20190415094534j:image

 

どうでもいいようなことを、如何にもどうでもよくない重要なことのように大袈裟に盛って書いていくのは少年時代にスーパーマリオに熱中した時レベルで面白い。

 

その文章に意味があるとかないとか考えることに全く意味はない。

ただ単に表現で遊んでいるだけの話であって最優先すべきは自分が面白いかどうかというところ。

好きこそものの上手なれという言葉が本当ならばこうして無目的に表現で遊ぶことも文章が上手になっていく一つの手段として大いに認める価値がありはしないかと思ってみたりもする。

 

ハープの音色がポロロンいうてスピーカーから鼓膜を心地よく刺激している。

朝からスヌープドッグを大音量で流すような下手は打たない。

自分の中で彼の音は午後からなのである。

朝は穏やかに始まるべきだとの哲学に基づき音はTPOをわきまえたチョイスを心がける。

机の右側には紅茶、左側には灰皿という不動のセッティングに今日も例外はない。

 

こうして朝の執筆はさもプロの物書きであるかの如くに進行してゆく。

しかし実際はプロでもなんでもないただの物好きな物書きの端の端のほうの端くれだ。

ところがそんなことにもお構い無くふてぶてしく書いていく様には我ながら清々しささえ覚えるし、誰にも指図されずに好き勝手な振る舞いを許されたこの場には自由を感じる。

 

喜怒哀楽のうちの喜と楽を謳歌しているこのブログに怒と哀を持ち込む気は更々ない。

そういった感情は別にこの場で表現しなくともリアルで充分事は足りている。

別に喜と楽がリアルで足りていないということではなく、そういうのは他人に共感、同情してもらわなくともごく個人的なところで完結することができるから好ましいというだけのことである。

 

共感と反感どちらも別段求めていないし怖れていない。

求めだしたり怖れだしたりすると色々と面倒なだけなんで無頓着という姿勢がベストオブベストだと思っている。

無心で書くという最高の境地にあとどれくらいの記事を書けば到達できるのかそれも楽しみの一つであるのだが、道はなかなか長く、また甘くもなさそうなので、だからこそやりがいを感じるという点においても当時のスーパーマリオと同じなのである。

3―2で亀を踏んで無限増殖を試みるアグレッシブな姿勢をこのブログでも保ちたい。

 

それにしても今日は天気が良い。

まるで春の陽気であるという表現を用いようとした瞬間に、今は事実嘘偽りのない春であることに気づいてまるでという表現は適切でないと思ったけども後戻りをしないでもなんとか切り抜ける言葉を探すのは、これもまた楽しみの一つなのである。

 

それはともかくとして、こう天気が良いと部屋でブログなんか不健康に書いてる場合じゃないというような一種の罪悪感さえ生まれてくるのはちと厄介だ。

でもまぁいい、執筆はあと少しで終わる。

それからは何の予定もありゃしないんだから思う存分に光合成を行う散歩という名の旅に出かけよう。

 

執筆を終えた後の散歩は格別だ。

桜は散ったが菜の花に群がった蜜蜂が仕事をしてる様子は覗けるし、海にでも足を運べば潮風は最高の浄化作用をもって肌にぶつかってくる。

この尾道因島という場所に生まれ落ちたことを常に天に感謝している。

感謝する癖がつくと心的ストレスは軽減されるという事実は大発見であった。

死ぬまでにどれだけのことに気づけるのかはわからないが、とにもかくにもゆけるところまでゆくというスタンスはこの先も崩さず継続してゆく所存である。

 

ちなみにスーパーマリオ2においてのルイージはマリオと比べてジャンプ力はあったがダッシュからのブレーキの効きが悪かったように記憶しているが果たしてそれは正しい認識なのだろうか…