よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

奇人変人と呼ばれて

 

昨日今日に始まったような青く成熟してない酸っぱいレモンの如くな我が儘とは訳のちがう、時を重ね熟成されたまるで晩秋から初冬にかけて軒下に吊るされた干し柿の外はモサモサ中はトロトロのあの感じに似た我が儘を嗜む無駄無し屋。

 

そういうモサトロな我が儘を好む酔狂な人間も決して多くはないが必ず何処に行っても一人や二人はいるもんだ。

 

そんな酔狂な人間達とだけ付き合いお互いが得をする関係を築くことが徳を積むことだと判断し、それを信じきり、実践している悪く言えば妄信的、良く言うならば崇高な我が信仰は現在進行形であって別に調子は悪くない今日この頃。

 

種を蒔いたら芽が出たなどと退屈極まりない表現なんぞに興味はない。

天の恵みと導きによって植木鉢の土の中からもぞもぞと頭を突きだしてきたカナブンの幼虫のような生命の神秘を感じる流れだ、位の表現が妥当であろう。

 

訳のわからんことを書くなと思ってしまおうかと思っている読者のかたもひょっとしたら、或いはもしかしたらいるかもしれないが、そういう心の狭い人にはおそらくこの先に紡いでいく言葉に覚えるのは不快感か意味不感でしかないということを今のうちに正直に告げておいたほうのがベターであろう。

 

何処に行っても奇人で通す別に大した役にも立ちそうもない自信だけなら溢れるくらい持っている。

何処に行ってもと言うからにはここブログの世界においてもそういう自信が溢れてないとこの書き込みは嘘となり、それは無駄無し屋の威信に関わることであり、面白くないことなのである。

 

はじめはどのような表現までがブログ運営的に問題が発生しないのかというところに注意を払っていたために、わりと優等生的で無難な言葉を選んで書き込んできたけどもね、もうそろそろ百記事にも近いし大体この世界のことも理解できてきたんで問題にならない程度に本性を晒していこうと思っている。

 

例えばかっぱえべせんをおいしく知人三人で食べていたとする。

その残りが一つになったときに無心にその最後の一つになんの躊躇もなく手を伸ばせる神経。

こういうのが立派だと思う人とは仲良くなれそうな気しかしない。

 

もう一つ例えば自分は一銭も持っていないのに友人のいない寂しい職場の同僚を慈悲の心から食事に誘うことのできる人に尊敬の念を抱くことはまったくおかしいことではないと言い切れる。

 

更に例えば自分のことしか考えない言動に徹する人間がもし他人の自分の事しか考えない言動にも不平を言わないのであればそれはそれで成り立つところもあると思っている。

 

まぁほかにも色々あるけどあんまり長いと自分で何を書いてるのか分からなくなる危険性が出てくるので今日はこの辺にしておこうか。

 

奇人変人と呼ばれモサモサでトロトロな我が儘を嗜みつつ最終的には開き直ればいいという信念を懐刀とし、その全発言に一切の責任を持たず飄々と且つ淡々と今日も元気に尾道で無駄無し屋を営んでいる。

あぁありがたやありがたや。


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