よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

珍品、珍獣が集まってくる無駄無し屋

 

どういうわけか、事務所に珍品、珍獣が集まってくる。

珍獣というのは、珍しい気質を持った人のことである。

考えられる法則といえば、類は友を呼ぶというものくらいだ。

まあ、自分がそもそも珍獣なのであろうという結論には既に至っている。

 

先日、友人からホーロー看板なるものをいただいた。


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どうやら未使用のようで錆び一つなくピカピカだ。

この時の自分の心の中に沸いた感情といえば、まず、嬉しい。

それからほぼ同時にこのあまりにもきれいな状態に対して、

 

怪しい

 

正直なところ、こちらの感情のウエイトのほうが上回っているように感じた、友よごめんなさい。

 

この手の物に、復刻版のようなものがよく出回っているのは古物業界にちょっと出入りしたことがあるので知っている。

その古物商の端くれだった頃の、洞察力というか、猜疑心が今も自分の中に名残を残している。

なのでとりあえず友人にその出何処を聞いてみた。

するとなんでも古い薬局屋の片付けに行った時に出てきたんだそうな。

 

「これは良い出何処だ」

 

とその瞬間思った。

古物屋は何処から出てきたものかということを非常に重要視する。

古い抹茶茶碗などが出てきて骨董屋に持っていくと、まず聞かれるのはその家の門構え、およその築年数などである。

 

要するに、その家に相応しい物がその家にあるという考えなのだ。

 

そういう点において今回のこの看板の出何処は申し分ないと言える。

おそらくオロナミンCの看板は昔、各薬局に配られていたはずだ。

こういうものが倉庫の中から出てきたとしてもなんら不思議ではない。

この状況証拠だけでも別にいいのだが、

 

しかし念には念を入れてその包んである、日に焼けて茶色くなった新聞紙の年月日を確認してみる。

 

昭和44年6月13日とある。

 

この瞬間、

「よし、当時物だ」(当時物とは、本当にその時代のものということ)

と確信し、この時はじめて嬉しいという感情のウェイトが怪しいを上回った。

 

友人からいただいたものに疑いの目を向けることには些かの罪悪感がなきにしろあらずではあるが、そこはもう致し方なきこととするしかほかはないだろう。

 

珍品、珍獣が大好きな自分がこの世を去るまでに、それらは一体どれほどの数が集まるのだろうかと喜びと戸惑いが同居する心情を抱えつつ、今回ウチの事務所にやって来たこの珍品を何処に飾ろうかと目下思案中である。