宗教と自分
宗教、というジャンルは嫌いじゃないんだけど、その語感はあまり好きじゃない。
なんか宗教なんて言葉を口に出しただけで煙たい顔されるようなイメージがあるんだもん。
大体、この国で宗教が煙たがられるのはその教義内容云々に対してではなく、その教義内容を扱っている人間が胡散臭いからなんじゃないのって思っちゃうんだよね。
まぁあるいは国民性というのもあるのかもしれないけど。
そんな中にも真面目にやっている人はいるんだろうけど、それはごく少数派に留まるのではないかとの見解を自分が持ってしまっていることは残念だよ。
寺の住職の堕落ぶりにはがっかりしないわけにはいかないね。すーぐ事件を起こす。
それに車屋の友人が言うてたよ。
カーショウにフェラーリとか高級車を乗り付けてくる中には寺の住職もチラホラだとか。
寺から離れた所にガレージを借りてそこにお布施で買ったありがたいお車を祀ってるんだって、やれやれ。
なんて誤解されちゃあ御仏に仕える身としてはあんまり面白いことじゃないんじゃないかな。
なんて余計な心配しちゃうのよ、こんな何者でもない駄民の自分でも。
それと昔ある宗教団体のその都市の支部長と名乗る御仁のお宅に出向いたことがあった。
偶然出会った信者の人に、
「君は素質がある。ぜひ支部長のところへ連れていきたい」
との申し出を受けた。
誉められたのかなと思い嬉しくてついていった。
ちょっとワクワクしながらその支部長のお宅にお邪魔したのだが、席につくや否や、さもこちらは無知で自分は全てを知っているげな講釈が始まった。
その講釈がどんなだったかは途中から興味が失せちゃったもんだから、明日のジャグラーは何番台を打とうかということに注意をとられていたのでここに書けないのは口惜しい。
それでもいちおう一通りそのおっさんの話を聞いてから、今度はこちらがその話の揚げ足をとりつつ自分の持論を誠意を尽くして展開していったら途中でそのおっさん、めんどくさいなコイツ、とでも思ったのか、
「私は用事があるからこれで席を立つがゆっくりしていきなさい」
という言葉を残してドロンした。
しかしその時始めて悟ったよ。
あれだけ言いたい放題言うた無知な二十代のジャグラー命などうにもならん講釈たれに対しても、
「ゆっくりしていきなさい」
などと言われた日には、この人は本物だ!と。
晩飯のカレーはしっかり二杯いただいて気持ちよく帰路についたけどね。
二度と声がかかることはなかったよ。
まだほかにも自宅にやって来た宗教の勧誘ぽい二人組がいたんだけども、その時ちょうど暇してたもんだから、「まぁ上がってお茶でもどうですか?」と、誘い込んだのよ。
そしたらその二人組、小躍りでもしそうなくらい喜んでくれてね。
どんなことになるのやらと期待に胸を膨らませていたところ、おもむろにタブレットを取り出してきて動画を見せてくる。
なにやら色々言うてたけどもあんまり面白そうな感じでもないから、退屈であるとともに少しイラっとしてきて、
「悪いけど自分の言葉で自分がこの宗教で何を得たのかをこっちにも解るように説明して」
と注文をつけたところ、二人は顔を見合わせながら沈黙するもんだから、こちらから色々と宗教以前の、人としての道と題するに値するかしないかは甚だ疑問なる演説をぶってやってたらその途中で、
「あのう、そろそろおいとまさせてもらいたいのですが」などと言われて帰られてしまった。
今こうして思い出しながら書いていると、自分はつくづく宗教には縁のない人間なのかもしれないな、と思った。