馬鹿も休み休み言う その①
と、いうことで、
「たまには馬鹿の一つも言わないと、儒学でいう処の中庸の精神に反することになってしまう」
という危惧の念が僕をこうした方向へ誘うことには大いに賛成だ。
元来、根が馬鹿に出来ているのをどうにかなるべく上手に世渡りができるようにと、日々がんばって多少の無理を押してでも脱線しがちなこのやっかいなタチの軌道修正のつもりで、まともなふうなことを言うてみたり、書いてみたり、考えてみたりとしているだけのことである。
馬鹿とはそもそもなんぞや?という疑問から始まるのだけど、ちょろっと辞書を引いてみたところ、こう書いてあった。
頭のはたらきがにぶいこと。
頭のはたらきがにぶいこと、だと?
なんだそれは!人を馬鹿にしてるのか?
と目にした瞬間、直感的にイラッとしたのがこの馬鹿という言葉の定義であるらしい。
この言葉に馬と鹿という文字を当てたということは、馬と鹿は他の動物に比べてすこぶる頭のはたらきがにぶいということなのか?
だとすればこの両者は些か残念な存在であるとともに、なんだか親近感を覚える存在として、今後自分の中で無邪気に跳ね回る愛くるしい姿をイメージとしてもつことになる。
馬と鹿が好きになれそうだ。
まあそんなことはどうでもいいといえばどうでもいいことなのだが、そのどうでもいいことを執拗なまでに追いかけてゆこうとする様が、つまり馬鹿ということになるのではないかと考察するあたりがやっぱり馬鹿なのであろう。
いや、いいんだ、馬鹿なら馬鹿で。
人にはそれぞれ合った道というものがあるとどこかで誰かが主張していたような気がするしな。
16、7世紀ごろの哲学者であったフランシス ベーコンという人が、
「賢い者はチャンスを見つけるよりも、みずから多くのチャンスを創りだす」
という言葉を残しているそうな。
この言葉を馬鹿なりに解釈してみると、つまりチャンスを見つけようとする者は馬鹿ということなのか?というようなものになってくる。
彼が生きていたならば、きっと、
「いや、そういうことじゃなくてだねぇ…」と困惑してしまうことだろう。
ところがそういう弁明はもはや馬鹿の耳には届きはしない。
馬の耳に、或は鹿の角に念仏である。
賢い人の言うことはいまいちよくわからない。
チャンスを見つける目ざとい目を養い、いざそのチャンスを見つけるやいなや、なりふり構わず一目散に食らいつく。
その際に周囲に遠慮は無用である。
なんならば他人を押しのける位の気概があればなおのことよしである。
というのが馬鹿な自分の馬や鹿的な立ち回り方だ。
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とまで言い切る度胸はあいにくと持ち合わせてはいないのでどうかご遠慮いただきたい。
あぁ、時にこうして馬鹿なことを書くのは筆が進んで楽しいものである。