老いの美学
自分にはすでに若さというものはない。今年で四十二。
だがしかし、想像していたのと随分違って案外楽しい。寧ろ、これからが人生の本番だとすら思っている。
ところで若い時の経験は成功よりも失敗のほうが自分の中では価値が高い。
若い人は色んなことに勇気をもって挑戦し、大いに失敗を経験すればいいと思っている。
世界は広く、奥は深く、人生は長い。
今の時点での大きな悩みは、時が過ぎれば小さな笑い話となることも少なくない。
それなりに経験を積んだ今でさえ、十年後の自分から見たら、まだまだ青いと映るだろう。
友人の一人に九十三才のお婆ちゃんがいる。
お婆ちゃんというには申し訳ないほどにテキパキとした人だ。
半世紀近く、祈祷占断という職業を生業としてきた変わり種である。
そんな昭和一桁生まれのお婆ちゃんは今でも新しい学びや発見に貪欲な姿勢を崩さない。
死ぬまで学びだという。立派だと思う。
そんな人から見れば四十一の自分なんかはまだ赤ちゃんみたいなものなのかもしれない。
そう考えるとやる気が満ちてくる。
まだまだ成長できる、まだまだ深く理解してゆける、と。
体にガタが来るのは、これは致し方ないことだ。
現に自分も若い時の無理が祟って膝と手首と腰を痛めていて、もうこれは死ぬまで付き合ってゆかねばならないものだと諦め、受け入れている。
しかし精神、心というものは死ぬまで成長させることが可能な希望に満ちたフィールドである。
肉体の劣化は致し方ないにしても、精神だけは劣化させずに向上させてゆくことこそが、人生を実りのあるものだったと思える唯一の慰めになると信じている。
こうして今の自分の考えを記録することができるブログというものには、出会えたことに感謝している。
たとえこれが世間からしてみれば、取るに足らない意見、考えだったとしても、少なくとも自分自身には過去を振り返ることができる有意義なものであることはたしかだ。
のみならず、もしかしたら、この先、この記事の中のワンフレーズが、ネットの検索を通じて見ず知らずの誰かに、何らかの影響を与える可能性だってなきにしろあらずだと思えば素晴らしい。
なにも孔子、仏陀、キリスト、ソクラテスの言葉だけが人々の救いになるとは限らない。
自分は小学生の言葉にだって救われた経験をもっている。
何らかの言葉を発信して多くの人の目に触れることには可能性がある。
自分の意見なんて、とは思うべきではない。需要の幅、種類というものは想像以上に広いし多い。
極端なことを言えば、
「今日は挨拶ができてよかった」
などという小学生の日記の一言からでも、なにかを感じる境遇の人だっていないとは断言できない。
自分にはもうかつての若さというものはない。
それは誰もが通る避けては通れない道である。
だけども自分の未来には希望が皆無ではない。
老いてゆくことは劣化してゆくことだけに留まらず、成熟してゆくことでもないと面白くない。
というのが、自分なりの老いの美学である。