情熱という名の聖火
皆さんは情熱というものをお持ちだろうか?
死ぬまで情熱という聖火を灯し挑み続けるチャレンジャーでありたいと思っている。
もしもその灯が消えてしまったとしたら、それは挫折を意味する望まざる結果だ。
だからどういう局面に立たされたとしても、これだけは死守していかなければならない。
それは雨が降ろうが、風が吹こうが、小石につまづいてスッ転んでしまおうがである。
燃え尽きることなく静かにメラメラと燃え続ける炎をイメージし続ける。
それはもはや神聖でいて崇高な輝きを放っているかの如くにね。
誰にも消すことなどできはしない不屈の炎。
そんな無敵の原動力を誰もが手にする権利を持っている。権利は平等だ。
金はかからないよ。どんな貧乏人でもこれだけは手にすることができるようにできているからね。
下手な小細工なんかよりもよっぽど強烈なる突破力をもつ情熱の炎。
誰にも消されない、誰でも持てる最強の相棒。
たとえば国際経験豊富な日本人のプレイボーイがいたとして、その流暢な英語を話すただヤりたいだけの浅ましい男よりも、たとえカタコトでしか話せなくとも、身ぶり手振りを交えながら、情熱をただひたすら愚直に伝えようとするその熱気に、金髪の美女は心を打たれることになるだろう。
自分を動かすのが情熱であると共に、他人を動かすのもまたこの情熱なのである。
知識というものが簡単に手に入るようになった現代である。
たしかにそれは人類にとって大きな進歩であると言えなくもない。
が、しかし、その知識に邪魔されることもありうるとも言える。
知る、ということは諸刃の剣であるからだ。
知ったからこそ臆病になってしまうことなんかいくらでもあることくらい誰でも知ってるはず。
最初から全てを知ることは寧ろ危険ではなかろうか。可能性の扉を閉じてしまいかねない。
知らぬが仏とは言い得て妙である。時には知ることは地獄である。
だからその都度必要な最小限の知識だけで充分ではないかと思ったりもする。
知識はあくまでも枝であって幹ではない。幹となるのは情熱にほかならない。
というのは我ながら名言。
精神論を侮ってはならない。目に見える結果というものは、必ず目に見えない精神から端を発しているのだから。これは絶対。
最後に頼りになるのは自らの情熱である
それがあってこその知識なのである。
勿論ベストは情熱の炎を燃やしつつ、知識を身につけることなのは言うまでもない。