天は神でありシステムエンジニアであるという見解
人生においては、「天の恵みと導き」というシステムが存在していて、それぞれに応じた恵みや導きが与えられている、というと皆さんはどのような反応を示すのだろうか。
ある時から、このように感じるようになり、それまでの人生を振り返ってみても色々と辻褄が合うことから、これを認めることにしている。
これは非科学的な視点から見ると、一種の信仰であるとも言えるし、科学的な視点から見るとシステムであるとも言えると思っている。
つまり天とは、ある意味で[神]と表現することもできると思うが、自分は、現時点では人智を越えている、現在の科学ではまだ裏付けることができていないシステムであるというふうに解釈している。
呼び方に大した意味はない。なんでもいいのだ。
とにかく、リンゴを手から離したら地面へ落ちてゆくという、この世の法則の類いだと思ってもらえばいい。
この天の恵みと導きというヤツを認めると、自分の役割というか、やるべき仕事がハッキリしてくるという点で非常に楽になる。迷いや躊躇がなくなる。
単純に考えると、天というものは自分に仕事や報酬を与えてくれる社長のような存在だ。時には罰さえも与えてくれるフェアな存在である。システムは感情を持たない。
仕事というのは、課せられた試練であることもあろうし、導きによって今自分が取り組んでいることでもある。
要するに天は与えるのが仕事、我々はそれをこなすのが仕事というふうに捉える。
これからどうしよう、と道に迷った時に、この天の導きを意識していると必ずなんらかの、しかも予期せぬ展開が与えられるように自分はなった。そういうことを繰り返していくうちに、未来のことを案ずる必要性を感じなくなった。
とにかく、この与えられた仕事に全力で取り組もう、そうすれば天がその仕事に見合った恵みや導きを与えてくれる。
目の前の課題をこなす、そこまでが自分の仕事であって、先の展開というものは天の仕事であり、自分の考えることではない。人生の半分は天が責任を負ってくれているように感じて心的負担が減った。そして目の前の課題、試練は逃げずにちゃんとこなさないと、次の恵みも導きも与えられないことを知った。要するに前へ進めないのである。
誤解を回避するために書いておくけれど、このシステムに人間が考え出した道徳は必ずしも良いように作用するとは限らない。あくまでもシステムは自然界のルールに基づいており、いくら他人に優しい人であっても、それだけでは良い恵みや導きを受けとることはできないし、
「あの人はいい人なのになぜか不幸が続くよね」
などと言われる類いの人になってしまいかねない。
天というシステムが評価してくれるのは、自然界のルールからはみ出していないもの。
わかりやすいのは例えば弱肉強食である。
この世の中を客観的に、冷静に眺めてみると全てが弱肉強食であることは一目瞭然だ。
それなのに、下手な道徳心というものを盲信していては淘汰の対象となることも少なくない。
全ての道徳が悪いといっているのではなく、必要なものと、不必要なものとをちゃんと分別できないといけないということを言いたいのである。
自分が優しい、他人を思いやる心を持っていると思うならば、その人はまずつよくならねばならない。たとえ少々他人を傷つけることになろうとも。
その思想が崇高なものであろうが、邪悪なものであろうが、つよいものがまかり通るというシステムがこの世にはある以上、弱者の正義よりも強者の悪が生き残る。
正義が弱者となりやすい要因といえば、それは綺麗すぎる理想、人間は他人を絶対に傷つけてはならないものという、いわば机上の空論的な道徳を鵜呑みにしているところだろう。
日本人なんか特にそういう傾向がつよいような感じがする。表向きには。
綺麗なものが好きなのはわかるけれど、現実というもの、人間というものは残念ながら、そんなに綺麗なものじゃない。
綺麗なところもあるけれど、汚いところもあるのが現実であり人間だ。
心配しなくても、この世の中に他を一切傷つけずに生存している人間なんか、ただの一人だっていやしない。目につくところか、つかないところかの違いであるといっても過言じゃない。
そもそもが、傷つくことも、傷つけられることも致し方なきことと捉えるべきではなかろうか。
勿論、それらは必要最小限であることが望ましいのは言うまでもない。
この世の中には、まだまだ他にもたくさんのシステム、法則と呼べるものが存在している。
このような見解は目に見える形で証明することは困難だし、思い込みの激しい妄信的な痛い人とも思われかねない危険性をはらんでいる。
だから、この意見を他人に押し付けるつもりは一切ない。あくまでも個人的な見解に留めておきたい。
まぁ一種のオカルト話とでも思いながら、軽く読み流してもらいたい。