遊び心
時折無性に筆を握りたくなるんだ。
別に誰かに師事するわけでも、書道家になってやろうとも思ってはいなく、ただ筆で書く感触と、ペンやキーボードで打ち込む文字とは違った、表現の幅というのが単純に面白いからという理由からなんだよね。全くの我流であり、日展なんかに応募できるような代物ではないよ。
行きつけの書道用品の専門店があって、そこの店主の80を越えた昭和一桁の戦前生まれの婆さんなんかは、なるほど達筆であり、真面目にどこぞの先生に師事して練習を重ねてきた感がありありと伺えるような文字を書いている。
きれいだなぁ、と素直に思うと同時に、どこにでもありそうな字だなぁ、という退屈感というのも悪いけど密かに感じてる。
そんな婆さんにかかっては僕の字なんかはまったくの邪道であり、書道を冒涜してると言わんばかりの批評を、親切丁寧かつ執拗に加えてくるのがお決まりとなっているよ。あはは。
でもいいんだ。婆さんの言いたいことがわからないわけでもないし、一応視力は両目とも1・5ある自分の目から見ても上手に映ることは稀にはあるが、ほとんどない。
たしかに邪道と言われれば邪道なんだろうよ。でもあれだよ、正道を目指している人が邪道と称されるのはまことに不本意なことなんだろうけども、正道なんかに興味の欠片もないような自分のような手合いにおいては、邪道と称されることは別に痛くも痒くもなく、寧ろある面からみたら誉め言葉として受けとることも可能な、わりと心地のいいような語感を感じるんだ。
根っこの部分がひねくれてるというのも、あながち悪いことばっかりじゃないもんだ。そういえば書いた字の線もどこかひねくれてるような気がしないでもない。うん、悪くない。
書道か習字か上手か下手かなんてのは僕の中では、地球上に歩く一匹の蟻の如くに小さいものなんでね、富士山や、世界の大きい山脈ほどの存在感があるのは「楽しい」という感情なのよ。
そんな蟻的カテゴリー、価値観なんて富士山を前にしたら見えないも同然だからね。用がない。
よくそこの婆さんは「最近は書道をやる人間がめっきり減った」とか嘆いてるけどもね、あんまり原理主義的に小うるさいことを言うて型にはめようとするから皆逃げていっちゃうんじゃないの?
とか思うんだよね。人が引き寄せられるのは楽しいことになんだよ。楽しいことというのは言い方をかえると魅力とも言える。入り口には面倒な門番を置くもんじゃない。敷居は低くしておいたほうが入りやすいしね。
もうちょっと、こう線をいかに美しくひくかばかりに熱心にならずにさ、幼稚園児にはじめてクレヨンを与えて自由に描かせるというような寛容さにも目覚めてほしいよね、その業界に属する方々には。
正義も価値観も法律もすべて時代の流れの中で移ろいでゆくもんじゃん。古い価値観、しきたりにしがみついて新しいものを否定するようになっちゃうとさ、自然界でいう淘汰、の対象として白羽の矢が突き刺さっちゃうことにもなりかねないのよ、この世の中では。
遊び心、という寛容さ、余裕、ゆとりは大事だよね。と、いうことで今日の一書。