よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

期待

鳴かぬなら、鳴かぬでもよい時鳥。

これは昔、自分のスタイルを、信長、秀吉、家康の性格を表現した句に倣ってつくった言葉だ。

殺してしまえ、鳴かせてみせよう、鳴くまで待とうのどれも、それぞれに魅力的ではあるのだけれど、自分にしっくりとくるかといえば、そうでもない。

まずこの3通りの考え方に共通しているのは、鳴いてもらいたい、という願望が前提にあるということである。要するに期待しているのである。

その期待に対するそれぞれの対応とでも言えばよいか。

ところが自分は、期待はしないことがいちばん楽である、というふうに思うものだから、色々とアクションは起こすけれど、それに対する結果というものは、出るに越したことはないけれど、出ないならば出ないで、別にかまやしない、ただ、やるべきことはやったという満足感だけでも充分だ、というスタンスなのである。

それに、時鳥は待っていさえすれば、いつかは必ず鳴くんだろうけども、これを人間に置き換えてみると、中には鳴く、つまり期待に応えることを苦痛に感じる人もいて、切り捨てられることは論外、鳴くようにあれこれ策を練られることには迷惑、いつまでも待たれることに対しては困惑、ということにもなりかねないのではないかと思うわけなのである。

だから他人に対しても期待はしない。

すると、焦り、怒り、疑い、といったあまり好ましくない感情がいつの間にか、すうっと消えていくから不思議である。

日常で期待を裏切られることなど、しょっちゅうだ。その度にいちいち反応するのには、いいかげん疲れてくる。しかしよくよく考えてみると、自分が勝手に期待しているだけで、期待をしなければ、そんな疲れは感じることはないわけである。

そんなふうなことを考えているうちに、ふと頭に浮かんできたのがこの、

鳴かぬなら、鳴かぬでもよい時鳥ということばだった。

もう7年くらい前のことだ。今では日々を楽に過ごしている。

楽なのがいちばんである。