よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

意味は持たせるものだという考え方。

そこに意味があるか、ないか。

という考え方はナンセンスだと思っている。

そこにどのような意味を持たせるか。

という考え方こそ、無駄無し屋の真髄であると言える。

これは、究極の前向き思考であると言っても過言ではない。

なにせどんなことにも意味を持たせるわけだから、まず後悔というものが生じない。失敗だって敗北だって、その時々に自分に必要な学びであり、成長の肥やしであったという意味を持たせる。

これまでに、いろんな失敗も敗北も味わってきたけれども、それらは本当に苦い味だった。

しかしながら、苦いからといって毒というわけではない。子供用でもないかぎり、薬というものは苦いと相場が決まっている。

良薬、口に苦し。というものである。

 

例えばの話、ウチの事務所には仏像が祀られてある。事務所に顔を出したときには、必ずその仏像の前で蝋燭と線香を立て、その線香が燃え尽きるまでの、時間にして約30分間のあいだ、お祈りをする。こういった行為は科学的に何らかの効果を実証できるものではないのかもしれない。

信仰心が皆無な人達から言わせれば、

「そんな祈りなどに意味はないし、一銭だって稼げやしないだろう」

などと、言うなり、思うなりすることもあるであろう。まあ、どう捉えようが各自の自由だ。

しかし、自分が仏像の前でお祈りをするのは、なにも仏や神といった人智を越えた存在に対しての「すがり」などではない。仏像という、いわば精神世界の象徴ともいえるべきものの前で、自らと向き合い、現状の自分の心理状態の確認と浄化の為という意味を持たせた上での、祈りなのである。

たまたま、ある人からこの仏像をいただいたので、別に宗教家でもない自分には、古物商でもある視点から、仏教美術というジャンルの骨董品として愛でることもできるわけだ。

事実、先輩骨董商の人達、数人からも上等なものだとお墨付きもいただいている。

ただ、やはり、せっかくこのような精神的作用を促すようなものを手に入れたのならば、ただの美術品としてしか意味を見出ださないというのは、どこか勿体ない気がしたのである。

この仏像を美術品として、金に換えるのは簡単なことだし、オークションにかければ、ひょっとするとそこそこの額になる可能性もなきにしろあらずではあるが、金に換わるという意味以上の、祈りの対象という意味を持たせることで、自己の成長の助けとなり、それが結果的に仏像を売った金以上の金を生み出すことになる、というふうにも思うことが可能だ。

 

仏像に手を合わせ、祈ることに意味があるかないかという議論はナンセンスである。

大事なのは、どのような意味を自らで設定し、そこから建設的な効果を生み出すか、ということであるように自分は思っている。

今回は例え話で仏像に対する祈りのことを語ったけれど、こういうふうな考え方は、色々と応用がきくので、起こる全ての出来事、判断、行動に意味を持たせ、それらを積み重ねてゆき、自分という未成熟な果実を少しでも成熟させるべく精進してゆくことに喜びを感じるという一面も、自分はもっているのも事実だ。

意味は持たせるものである