読書は目的ではなく手段
べつに熱心な読書家ではないが本を読むのは嫌いじゃない。
損得抜きに楽しい読み物もあれば、自分の心になにかを訴えかけてくるような言葉に出会う喜びもある。
人生の為になるような教訓めいたものを目にしたときなどは、思わず緩んだ靴ひもを結び直すような心持ちにもなる。
そうした心的影響を与えてくれる書物に触れることは有意義な時間であることに疑いの余地はないが、読書というのはあくまでも手段であって目的ではないというのが自分の読書感でもある。
読書はべつに何にもまして最優先すべきことではない。
時間が許す範囲での、しなくてもいいがしたほうのがよいことの類いだ。
しかし言葉が人間に与える影響は思いのほか大きく、良くも悪くも言葉によって判断が左右されることは間違いのないことである。
人間は好むと好まざるとに関わらず、色んな映像、言葉などから洗脳されているといった表現も過ぎたものではあるまい。
その時々の自分の求めているものが目の前に現れるとそれにすがりたくなるのが人間というものなのである。
読書の経験を増やしていったからといって賢くなるとはかぎらない。
読書から得たものを現実世界で活かしてこそ読書はその本懐を遂げる。
娯楽的な読み物はまた別だ。
読んだからといって別段直接暮らしの役にはたたない。
だけども楽しかったという心の充実感は得られる。
それが大袈裟な表現をすると生きる活力となるので無駄ではない。
なんにしても文字を目で追いかけるという行為は集中力を要する。
そしてその綴られた文章が何を言わんとしているのかを考える必要がある。
横着者には無縁なことだが文中にわからない言葉が現れたときにはその言葉を調べることにもなりうる。
読書はただ知的好奇心を満たすためだけのものじゃない。
読むという行為を通して集中力を養い、思考力を鍛え、理解を深めて自己を成長させてゆくためのものでもあるじつに奥の深いものなのである。
色んな書物に出会っていくなかで、これは!というようなのに出くわしたときはそれは幸運といえる。
一回読んでわかった気にならずに何回でも読み返すことをすすめたい。
繰り返すことが悪となるのは過ちだけである。
体を鍛えるのも頭を鍛えるのも心を鍛えるのもはたまた技を磨くのでさえも繰り返してなんぼの世界だ。
書物は人ではなく物であるが、それを書いたのは物ではなく者である。
強者、利口者、愚か者などが四苦八苦の末につくり出したのが書物なのだ。
そんな人間たちとのさしの対話、時に共感し、時に反論する。
そういった営みの総合的なところで読書に意味が出てくるものだと自分は固く信じている。
例えば三年前に読んでいまいちピンとこなかった本が今読んでみるとうんうん頷けることがある。
そういうのは書き手の方が一枚上手で当時の自分のレベルではその内容を本質的に理解できていなかったことからくる現象であるうように思われる。
その逆に三年前にはバイブルのように思っていたものが、今ではなんか退屈なものに成り下がってしまったという現象もしばしば起こる。
読書は自己の成長を測る物差しのような役割も果たしてくれるのである。
まぁ読書に対する姿勢も十人十色であるからして、こういうふうな考えを押し付けるつもりは毛頭ないが、こういうふうな考えを持って読書に挑む人間もなかにはいるということを書いておくのも世の中の害にはならないと考える。