言語表現のコントラスト
誰かを幸せへと導くようなのを目指してもそれは偽善となってしまいそうなので、せめて時間の無駄にならない程度のものを書けたらなどと思いながらの今日の執筆は始まってゆくのである。
他人に自分の文章を読んでもらうということは、他人の大切な有限なる時間を数分ばかりではあるが奪っているという見方もできなくはない。
そういう見方をすると、自分の表現に時間を割いてくれている方々にはありがたいという感謝の念を抱くことが誠意というものだろう。
時間をいただいて申し訳ないなどというのは建前上の謙遜として見ることもできるが、申し訳ないと本当に思うんならば、そもそもそんな申し訳ないものを書いて読ませるなよ、と思うわけである。
自分が書いたものを読んでもらうのに申し訳ないという感情はいらない。
いるのはありがたいという感情ひとつだけだ。
だからこそ今、自分が表現できる最善を尽くすことを心がける。
なんてまるで猫を被ったような前置き建前はここまでにしといて、本音で言えば
「読みたきゃ勝手に読めよ、責任はとらないし文句言うなよ?」
てな具合で書いてるんだから我ながら始末に負えない。
まぁでもみんなそんな感じなんじゃないの?
と、思うのは自分がただ性格が悪いだけなのかもしれんけどね。
いいのよ、べつに。
それくらいじゃないとやってゆけないよ。
一旦まかり間違って礼儀正しいきちんとした人なんて印象を与えてしまった日には、あとが辛くていけない。
ずっと猫被ってないといけないのは息苦しくて呼吸困難になっちまう危険性を孕んでいる。
良い人と思われながら窒息死するよりも、悪い人と思われてでも自由に空気を吸い込んで大空をはばたきたいじゃないか。
もともと悪い奴だと思われてればたまに良いこと言うと誉められるもんね。
コントラストの勝利ってやつだよ。
したたかに文章をしたためることに重きをおいているんだけどもね、今日なんかもう結局何が言いたいんだか自分でさっぱりわからんところまできちゃったもんだから、後ろを振り向いてももう後戻りできそうもないんでこのまま無責任に逃げきることにするよ。
しかしこの無駄無し屋を侮ってはいけない。
あくまでも予定ではあるけれど、今後時々はみんながドキッとするような核心をついた文章をお披露目することもなきにしろあらずだ、知らんけど。
笑って読んでくれる寛容な心の持ち主な読者さんに感謝。
唾を吐きかけたいほどの嫌悪感を抱く読者の方は残念だけどさようなら。
無駄無し屋の主張に少しでも共感してくれる読者の方がいるならばやる気も起こるというものなので、引き続きこんな駄文が将来どういうものに化けるのかを長い目で見てやってほしい、とまでは思わないのでどうか適当に読んでもらいたい。