よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

非科学的な思想はオカルトと言われるが、果たしてオカルトはとるに足らないモノなのか

生きていると、いろいろと不思議な体験をするものである。

そんな中から、出会いというものについて書いていこうかと思う。

今日はいつもの日課である散歩の最中に、10年ぶり位の友人と道端でバッタリと再開を果たした。10年前の自分は水商売をしていたし、その友人はただのフリーターであった。ただし、その彼には夢があって、自分のアパレルブランドを立ち上げたい、と漠然とはいえ考えていたようであった。

なんとなく疎遠になっていったまま10年の月日が経っていた。

歩いていると、車から声をかけられ、その友人と再開を祝いながら、そのままその車に乗って自分の事務所に向かった。この10年の間のことを聞いてみると、彼は一年ほど前に、念願のアパレルブランドを立ち上げ、夢を叶えていた。これには正直驚いた。

なにせ、当時の彼はたしかにお洒落には気を使っているようではあったけれども、如何せん決断力や、行動力といったものには力強さに乏しく、

「願望だけで終わるんだろうなぁ」

というふうに思っていたからである。

しかし、そういう私の見解は、嬉しい誤算となって10年後に姿を現したのである。

その祝いのつもりで昼飯をご馳走した。

一方で、自分のこの10年間の流れも軽く説明し、今ではこうしてオンボロながらも事務所を構えて、不労所得を得てから、商売としてではなく、無償で本当に自分がやりたかった他人の相談にのる、ということを細々とではあるけれど、やっていて、充実した日々を過ごせていることを伝えた。

すると彼は、

「いや、それが今、ちょうど誰にも相談することができないでいる悩みごとがある」

と、その悩みを打ち明けてくれた。

その内容はここでは書かないけれど、かなり根が深いというか、因縁めいたものを感じさせる内容のものだった。

自分ができる精一杯の対応をした。

どこまで彼の心を軽くすることができたかは分からない。

しかし、少なくとも、吐き出させてあげることはできた。

相談事というのは、知り合いであるほど難しい。赤の他人であるほど、クリアに相手の様子が読み取れるし、感情がないぶん、的確な言葉を発することに躊躇がない。

身内の相談の難易度は高いのである。

 

これを期に、また付き合いを再開させようということになり、今日は別れた。

彼は、この10年間頑張ったんだと思う。だからこそ、夢を実現させることができたんだろう。

自分で言うのも何であるが、私も真剣勝負を繰り返してきた結果、他人の悩みごとに顔を突っ込むという、奇特な趣味を現に嗜むようになれている。

この10年間の空白を一瞬で埋めてしまうかの如くの邂逅。

彼は、相談相手を求めていたに違いない。そこへ10年間、なんの音沙汰もなかったかつての友人が、相談事を請け負うことに生き甲斐を感じるようになって、突如目の前に現れた。

こういうのは、ただの偶然として片付けるのは、あまりにも感受性に乏しいのではないかという事例の一つであるように、自分は思っている。

この世の中には、多くの法則が存在していることを信じて疑わない、というゆうよりも、自らを実験台として確かめてきた上での実感として、信じるというよりもより具体的な存在としてある。

人によっては、このような「人智を越えた見えざるなにか」についての話には、オカルト信者であるとか、思い込みが激しい人、というような否定的な、懐疑的な目をもって軽視することもあるし、寧ろ、そちら側のほうが、マジョリティであるのも事実のようには感じる。

たしかにそんな「人智を越えたなにか」の存在を認めなくとも、人生は送れるようにはなっているから。それはそれでいいことだし、認めない人を間違いだと主張する気は毛頭ない。

ここで、このようなことをあえて書くのは、一つの実験でもある。自分が発見した法則が正しければ、必ず自分の想いは通るものだという。

このブログが誰にも相手にされずに廃れていくとしたら、間違いだったのかもしれない。しかしその逆に、繁栄していくことになれば、自分の発見は間違っていなかったという証拠になる要素として捉えることも可能だ。

なんでも内に秘めているだけでは駄目だ。人目に晒して試してみることが大事だと思う。

答え合わせは、しないと決着がつかない。

断乎、この世の中には、未だ科学では説明がなされていない、現時点では不思議とされるようなものたちが存在していることを叫びたい。