まるでカメレオンのように
その時々で、臨機応変に。
が、モットーだ。これは自分が上手く世渡りするために身につけた、生きる術とも言える。
行き当たりばったりの出たとこ勝負を繰り返してきてるけれど、今のところはなんとかなっているし、他人がどう言おうとこのスタイルが自分には性に合っているように感じている。
率直に言うと、運は天に任せているというような具合。
運命は自分で切り開くものだという考えにも共感はするし、運命を天に任せて、自分は自分の目の前のやるべきことに只ひたすら神経を集中させる、というような捉え方もまた良いと感じる。
昔、つい5、6年前位までは、こだわりに重きを置いていたのだけれども、それでは些か前に進みづらいというふうに思い始め、こだわりというものを、恐る恐るに手離してみた。
なんだろう、身軽、という形容がしっくりくるような精神状態に、こだわりというものを手離した直後からシフトチェンジしていく感覚が、自分の中にあった。
まずいらぬ衝突というものがなくなった。こだわりを持つもの同士はどうしても衝突しがちな節がある。それが一概に悪いことだとは思わないけれど、それで余分な時間を食ってしまったり、役立つはずの人脈を失うこともままあった。
全てを受け入れるなんて高尚な思想をもつには自分はまだ若すぎるのかもしれないが、せめて無頓着になれれば、とは常々思っている。
人に対しての施しに無頓着になることで、なんらかの見返りがなくとも腹を立てずに済む。
他人からの無礼に無頓着になれば、どこか余裕が生まれた。
対象に興味を持ちすぎるのも考えものだ。おせっかいというものが発生する危険性を孕んでいる。
時代は常に流れている。昨日の常識が明日には非常識になることなんていくらでもある。
そんな諸行無常な浮き世において、一つのこだわりや、正義、考え方に執着するのは、淘汰の対象にしてください、とでも言わんが如くに映るのは、或いは自分がひねくれているからなのかもしれないな。
人間の本能の根っこの部分には、生き残りたいという大きく、つよい願望みたいなものがある。少なくとも自分には。
「ここでくたばっても自分の信念を貫ければそれで本望だ。」というような武士の心得とも言える勇気は自分にはないし、また必要性も感じていない。
只、生き残ることだけ。なんだか利己的にも聞こえるかも知れないが、これは偽りなき本音。
自分が生き残れそうな目処がついてはじめて周囲を見渡すことができる。
隣人に自分の貰ったものを分け与えようと思えるようになるには、まず自分が安心できる状態に物理的にも精神的にも、なることが先決なんじゃないのかと、思うわけだ。
こだわりというものは選択肢を少なくしてしまう。よっぽどに屈強な精神力を有する強者でもない限りは、カメレオンにでもなったほうのが良さそうだ。
事実カメレオンになってみた自分には、一匹の虎のような猛々しさはない。
その時々に体の色を変化させて、なんとか危険を回避するというケチなスタイルなのかもしれない。
ところが自分はそこに負い目を感じるどころか、
「これこれ、これがしっくりくる自分のスタイルよ」
などと、一人ほくそ笑んでいたりするのだからそうなんだろう。
臨機応変に、カメレオンの如くに変幻自在となり、生き残ることを最優先とした、自分の本能に忠実な生き方というものも突き詰めれば、意図せずとも少しは世の中の為になることもあるかもしれないなどと、考えてみたりもするのであった。