よろず無駄無し屋

出たとこ勝負な文章ゆえの生々しさ

朝の散歩

 

おはようございます、無駄無し屋でございます。

 

本日は国民の休日であるはずの日曜日です。

のどかな朝でした。

 

ふと気が向いたので朝の散歩に出かけました。といっても歩いて25分位のところにあるコンビニまでなんですけれど。昭和の雰囲気を色濃く残した我が地元は、歩いていても懐かしく楽しいものです。途中で彼岸花を見かけました。


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朝日を受けて光合成を行う植物を見ると、なんだかこちらまで元気になるような気がするので、是非皆さんも通勤途中などの際、少しでも道端の花に目を向けてみていただきたく思います。

 

そんな道中を経て、着いたのがファミリーマート。ここのコンビニの裏はすぐ海なので、サンドイッチとオレンジジュースを購入して裏手にまわり、そこの堤防に腰かけて朝食にしました。

ここは私のお気に入りの景色の一つで、よく来ます。


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飽きることなき絶景です。小さな島々が連なり、それも絶妙な配置であるものですから、ついついシャッターを押してしまうのも、致し方なきことと躊躇いなくパチコパチコと撮ってやりました。

 

今日は潮が満潮に近かったので、さらに海がエネルギーに満ちているように感じました。この因島水道に並々と注がれた海水は、波の高さこそほとんどないのですが、流れはめっぽう早く、かつてはここを村上海賊がテリトリーとし、通行税を徴収し、水先案内人として活躍していたことに思いを馳せながら、パクパク、ゴキュゴキュと朝食をたいらげたのです。

 

堤防にゴロンと寝転んで、ふぅー、と食後の一服をしていると、水面にエイが浮かんで来ました。大きさは大体横幅で1メートル位ではないかと思われます。ぬぅーっと突然底の方から現れたエイに思わず「ここは水族館かよ」と、心の中で突っ込んでしまいました。

その両方の腕だかヒレだか知らないものをヒラヒラと翻しながら優雅に泳ぐその様に目は釘付けでした。腹の方は白いので、ヒラヒラとする度にその白い部分が見えて、深い緑色の海水とのコントラストが、よりいっそうエイの存在感を強調しているように見えました。

ところがそのエイはなんと一匹ではなかったのです。確認できたのは全部で4匹。エイは匹という数え方でいいんですかね、よくわかりませんが、とにかくエイの群れに遭遇したことに間違いはありません。

満ち潮の時は海面から堤防までの距離が近いので、より臨場感溢れる観察ができました。

 

空を眺めると鳶が飛んでいました。それとあとあれはカモメなのかな、ジョナサンを連想させる生き物が一直線に右から左へと羽をばたつかせて飛んゆき、小さくなって消えてゆきました。

目の前で蜂とおぼしきつがいがまるで二匹でダンスを踊るようにして飛び回っていたのが微笑ましかったですね。

 

自然と触れ合うのはやっぱりいいものですね。

朝の散歩で鋭気をまず養い、今日の一日をエネルギッシュに生きる。

 

うーん。贅沢な暮らしである。と自己満足な朝でした。

 

欲に乗る

こんにちは。

おかげさまで特に深刻な悩みに苛まれることなく、暢気な日々を送ることができている無駄無し屋です。

本日も、書いていこうと思います。

 

はい、それでは突然ですが、欲に溺れるという言葉を皆様も御存知かと思います。はっきり言って良いイメージではない言葉ですね。欲に溺れる人だなんて形容されると、自分が駄目な人間だとの烙印を押されたようで、常識的な神経の所有者であれば、ガックリ&自己嫌悪に陥ることまず間違いないのではないでしょうか。

しかし、この言葉はですね、欲が悪いと言っているのではなくて、溺れることが悪いのだと言っているのですね。少なくとも私はそういうニュアンスでこの言葉を解釈しております。

仏教の教えでは煩悩からの解脱、つまり欲を手放した状態を最高の境地だとしています。理屈の上では素晴らしいことですね。私なんぞには理解しかねる高尚な教えです。

が、しかしですね、それはあくまでも、仏教という一宗教の中の最高の境地ではあるのかも知れませんが、それが人間の普遍的な最高の境地かと言えば、違うと言わざるを得ないと私は個人的に思うのです。

 

結論から言いますと、欲に溺れるのも、欲を手放してしまうのも、不器用なやり方であり、本当の人生巧者は欲を上手に乗りこなしているように見受けられます。私はサーフィンをしたことはないので、これはあくまでも憶測の域を脱しないのですが、おそらくサーファーが待つ波を、欲に置き換えてみると解りやすいのではないでしょうか。

 

波に乗るのも欲に乗るのもスムーズに事が運ぶという点においては同じことだと思います。問題は上手に乗りこなせるかどうかという点だけでしょう。欲というものは一言でいうと「原動力」であります。この力に溺れてしまわずに、捨ててしまうなんて早まらずに、じっくりと練習をして上手に乗りこなせるようになると、世の中の現実的な願望の殆どは成就するのではなかろうか、と思ってみたりするのです。

 

こんなせわしない現代ででも、時にはゆっくりと、一人で「欲を上手に乗りこなすとはどういう状態のことをいうのだろうか?」などと考えてみるのもいいかもしれませんね。

 

欲望のコントロールとか付き合い方というと分かりやすいのではないでしょうか。


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音の味わい方の一つ


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こんにちは、無駄無し屋です。

本日もなんとか読める文章を書いていこうと思います。

 

音楽を流しながらブログを書くのが好きです。できれば歌の入っていない楽器の演奏が良いですね。今も聴きながら書いてます。胡弓という、こういうのを弦楽器というのですかね、知識がないので呼称などはよくわからないのですけども、とにかく、要するに本体は三味線に似た風体で、その本体に付いている弦に、今度はバイオリンを引く時に使用するあの道具に近しい物で弦と弦を擦らせて音を奏でるのです。

 

これがなんとも言えない素晴らしい音で、それがどう素晴らしいのかと言えば、端的に申しますとキュッと引き締まった感じのしなやかで伸びのある、どこか哀愁を帯びた落ち着いた音、というところに素晴らしさを感じています。

 

音楽には体にも心にも動きを促す作用があるように感じます。これはなんでしょうねぇ、言ってみれば人間の本能に鼓膜を通して訴えかける、目には見えないが耳でその存在を聴き認める合法なドーピングとでも言いましょうか…、目には見えないが存在するなどという表現を使うとなんだかオカルトじみた感じになるのですが、そう言った意味では音はオカルトと言っても良いのではないでしょうか。

 

リズムよく動きたい時、皆で騒ぎたい時、一人でしんみりしたい時、二人で愛を語り合いたい時、などとそのシチュエーションに応じた最高の音を探し出すという営みは、それ自体が良い趣味であり、人生が豊かになることはあっても、荒んでいくことはほとんどといっていいほどないのではないでしょうか。

 

音を楽しむと書いて音楽という名がついておりますが、個人的な意見としましては、楽しむというよりかは、味わうという表現を用いたほうのがしっくりとくるのです。まあ、そのようなことはどうでもよろしいことなのでありますが、とにかく、音楽、と言いますか、音には物凄い力や栄養素が含まれていることは、私が感じるところにおきましては確かなことのように思います。

 

CDが一通り音を流して止まってしまいました。リピートにはしていません。諸行無常に価値や美しさを感じます。終わってしまったものを受け入れ、その余韻で心を潤わせるという味わい方もまたありなのではないでしょうか。

個人的見解をつらつらと


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はい、無駄無し屋です。こんにちは。

それでは本日二本目の駄文を綴っていきましょう。

 

台風はどうやら遠退いたみたいです。家の外の鉢植え植物はひっくり返っているものもありました。でもまあそれくらいの被害で済んだことに感謝しなければなりません。

ありがたや、ありがたや。

 

午前中の曇り空に強風といった台風の症状とは打って変わって、現在は穏やかな青空が広がっています。午後からの洗濯は問題無さそうです。気象自体は問題ないのですが、実は昨日の夕方に野良猫が洗濯機の上に乗っかってくつろいでるのを確認したのですが、その猫がどうやら吐いてしまったようなのです。洗濯機の上から猫は消えており、そのかわりに嘔吐物が鎮座しておりました。これは非常にやれやれな状態であるといえます。なので、午後からの洗濯の前にまず、洗濯機自体を洗わなければならないという事態に陥ってしまったようなのです。

 

この辺りは田舎で、どこの猫も放し飼いですし、そのせいか野良猫がすこぶる多いです。近頃では野良猫に餌をやってはいけないというふうな風潮が主流のようですが、やはりそこは人情とでもいいましょうか、駄目だとわかっていても、つい飢えた子猫がにゃあにゃあと泣きながら近寄ってくれば、手を差しのべてしまう人達がこの地域にはまだまだ存在しているようです。

それが是か否かということを私はいうつもりもありませんし、そのようなどちらの言い分もわかるような案件は、正直是か否かなんて決められません。ただ一つ言えることは、どの角度からその事実を見るか、ということに尽きると思います。

人間至上主義という観点から見ると、エサなんてやらないほうがいいとも言えますし、人間もこの自然界の一員に過ぎず、その権利は猫や犬、そして全ての動植物と平等であると考えるならば、自然を破壊し発展していった人間が、申し訳なさから施しを与えるということもあるうるわけなのです。

 

この国は今、少子化が問題になっているようですが、私個人の意見としましては少子化は多いに結構なことだと思っています。たしかに目先の経済的な面だけに目を向けると、少子化は大きなダメージとなるのはたしかなことでしょう。

しかし人間はすでに便利を通り越して横着を求めるところにまで来てしまっているような気がしてなりません。

原発なんかも賛否両論あるみたいですが、人口が増えすぎて電力が追い付かないから必要というのであれば、人口が減るか、各々が少しずつでも無駄な消費を抑えるというちょっとした心遣いがあれば、危険な原発を頼りにしなくとも、なんとかならないものでしょうか。

 

ところでこの国は最近韓国をよく避難していますが、よくよく聞いておりますと、その韓国の何処に怒りを感じているのかといえば、自分さえよければの精神に対してのように私は感じます。しかし私は日本人ですが、日頃の暮らしの中で、多くの日本人が自分さえ良ければの精神を発揮しているように見受けられます。極論を言えば、韓国のことをとやかく言う前に、まずは棚にあげている自分の自分さえよければの精神をなんとかするのが先なんじゃないのかと思うのです。

 

自分さえ良ければ、という考えは本当に世界に争いや不協和音を生む精神的な癌だと言っていいのではないでしょうか。

なんとか人類が同族と争うことなく、しかも異種族に必要以上の迷惑をかけないような政策を打ち出してくれる救世主的な指導者が現れてくれないものかと切に願っている今日この頃でございます。

アメリカに対し、建前は同盟国だと関係性を公にしている我が国は、実際はただの属国でしかないのが事実であります。自民党が独自にアメリカの考えを無視して政策を展開してゆくことは、私はもちろん政治の素人でありますから、想像できません。

アメリカの方針を全て否定するのもまたおかしなことだとは思いますが、その逆に全てを肯定するのも如何なものか、とも思います。勇気を出すべき時には出さないといけないと思います。

 

哀しいことに世の中には建前が大義となってふんぞり返っている人間の欲望や、相手を恐れる不安から来る自己防衛本能が歪んだ形となって蔓延しています。

それが世の中というものだ、などと悟ったようなことをいう人を私は好きになれません。本心から自分以外の誰か、何かにほんの少しの配慮を示す人が増えると、その少しの配慮はやがて大きな配慮となっていろいろと個人では成し得ない奇跡的な結果を生み出すことができるのではないかという想像を働かしてみたいものです。

 

文章力、表現力に未だ乏しいもので、自分の考えを全てうまく書けたとは思えませんが、それでもおおよそのところで日頃から自分が心の中で思っていることはなんとか吐き出せたのではないかと思います。

別にこれを書いたからといって何がどうなるわけでもありませんし、そもそも私は人様に与える影響力などとは無縁の孤独な中年でしかありませんので、こういった文章もただの自己満足でしかないということをどうかご理解願いたく思っている次第でございます。

 

さてと、戯言はここら辺にしておきまして、現実の猫のゲロ掃除に取りかかろうと思います。

皿洗いの最中のポジティブな妄想

 

はい、無駄無し屋でございます。

本日も元気に駄文を綴っていこうと思います。

 

いきなりなのですが、私、無駄無し屋は少々がさつなところがございまして、今日の朝などもお皿を洗っている最中にそのお皿を水道の蛇口にぶつけてしまい、あまり耳障りの良くない衝突音を出してしまいました。このような現象も、やはりお皿を丁寧に扱わない、この憎きがさつさからくるものかと思います。しかし、こればかりは持って生まれた性分のようなもので、なかなか改善できないものであることは否めません。

別段がさつなままでも人生を全うすることはできますが、しかし、そのがさつさを少しでも封じ込めることができたならば、今よりも更に人生が良くなることは確かではないかとも思うのです。

 

そこで私は考えました。

 

「どうすればこの憎き役立たずながさつさをこらしめることができるだろうか?」と。

 

そしてふと、まるで天からの贈り物のような一つの閃きが、私のなかに産声をあげました。

 

[このお皿は自分の物じゃないんだ。自分が大切に想っているあの人の物なんだ]

と、思えとです。

 

思わずハッとなりました。

それは別に大切に想っている誰か、じゃなくてもいいんです。例えばこのお皿は物凄く高級品なんだ、でも良いですし、とにかくなんにせよ自分にとって大切な物であると思うことが大事なのだということです。

 

これは物にだけではなく、人間や動物、全ての物事に精通する普遍的な真理なのではなかろうかと、考えを飛躍させてしまいかねないほど素晴らしい思い込みではないでしょうか。

 

つまりそれを突き詰めてゆくとその根本は「愛」ということになると私は信じて疑いません。

愛にも色々なかたちがありますが、その中の一つに丁寧というものがあります。丁寧は愛なのです。

 

と、いうことはその対極にある雑さ、がさつさは愛の対極にあるというほか解釈が見当たりません。そうしたことを考えますと、これまで自分はなんと愛の足りない人間だったのだろうかと、これから先、後悔やら懺悔の念にかられ、夜な夜な枕を濡らす日々が続くのではないかと思うような、思わないような。

 

と、いうようなどうでもいい妄想はこの辺でお開きにして、とにかくこれからはそのお皿がたとえ少し縁が欠けた安物であったとしても、自分にとっては大切なものなんだ、という意識を持って皿洗いに挑もうと思っている、ということなんです。

 

 

無名ブロガーの今日の一日を書いてみようか

 

朝は青空がひろがってたのに、今は雨。

気温は低い。なんだかこの雨でいよいよ秋がやって来ましたって感じになるのかな。うん、もういいね、秋が来ても。

 

しとしと、と振る雨は好き。なんだか心が落ち着くんだよね。こんな日は自宅でのんびりくつろいでればいいのさ、なんて自分に言い聞かせてこのダラダラを正当化したりする。

なのでダラダラついでに少しブログでも書いてみようかなって思ったわけで、こうしてとりとめのないことを文字に起こして遊んでる金曜日の午後。

 

なにっ。金曜日?

 

あっ、いけない!今日は瓶と缶をゴミに出せる日だったぁ!

ちくしょー、週一のチャンスを逃しちまった。

あーやれやれ。やっぱり忘れるんだよなぁ…

 

まぁいいや。死にはしないし。

 

今日は久しぶりに会う友人とお喋り。

彼は大体、午前の11時にやって来て、そして午後の二時に帰っていく。まぁ大体二時間喋って一時間昼食っていうパターン。会話の内容つまりトピックはといえば、これも大体、癌の治療のことか非科学的なことかに決まっている。

 

そのやって来る彼は、自らが大腸癌のステージ4からのまさかの回復劇を展開して魅せた稀有な存在であり、その事実が話題となって、今やこの尾道周辺で、講演依頼が殺到しているというなんだか興味をそそられる人物なのである。

 

そんな彼とは知り合ってまだ10回も会ってはいない。半年前くらいに友人の紹介で知り合ったといういきさつで、これがまたその紹介してくれた友人というのが、すこぶる面白い人間で、今の職業は絵描き。しかも売れないしがない貧乏絵描きではなく、そこそこ売れてる小金持ちっていうラインをキープしてるってんだからこっちもビックリしちゃうよ。

 

なにがビックリするかって、つい5年ほど前まで絵を描くなんてことはほとんどしたことがないずぶの素人の家持ち、家族五人持ちの無職からの、この逆転劇だからね。

 

世の中なにが起こるかわからんよ、実際。

 

んで、その絵描きの友人はわりとスピリチュアルなところがあって、しかも大のオカルト好き ときてるもんだからこの無駄無し屋とは話が合う合う、あうあうあうあう。

 

そういう流れでその癌治療の彼も、もともとスピリチュアルなことに興味があったと見えて、ちょくちょくスピリチュアルなトピックに対して意見を交わす、というか議論をする、というか、あーでもないこーでもないと言葉を交わすようになったというわけ。

 

しかしなんかこのスピリチュアルっていう語感がね、どうも胡散臭さだとかお花畑的な脳味噌保持者だとかいうイメージがあってね、好きじゃないんだよね。

 

なんかないもんかね、しっくりとくる日本語は。

て、考えてみたところ、これはあくまで消去法でなんだけども、非科学、というのがまぁ妥当なんんじゃないかと思うわけよ。

端的に言うと…

 

ん、ちょっと待てよ。そもそも何の話だったっけな。

 

あ、そうそう友人とそんな類いのお喋りをして、そのあと行きつけのお好み焼き屋で素晴らしくおいしいお好みを食したところで時間は一時45分という彼が帰る2時にあと15分となっていたので、ここでバイバイして帰路についてからの今ゴロゴロ。

 

彼から貰ったお土産は梨と梅干し。

 

非常に嬉しい。

 

さっそく今晩にでも食してみようかと思っている。

 

 

 

気持ちの良い朝

 

自分は世のネガティブ思考の人たちがお花畑と罵り蔑むポジティブ思考の人間だ。なにせB型だからな。

 

朝食に買った揚げたこ焼きがすこぶる美味であった。飲み物は牛乳。この組合わせは初の試みであったがなかなかマッチした。なのでやる気がむくむくと沸き起こってきて、つい、こうして朝の貴重な時間をこのブログに割いているわけなのだけれども、これも何かの導きだと思って心のままに書いている。

 

やる気に満ちた朝というのは本当に気持ちがいい。それは精神的に。肉体的にも朝は涼しくなって気持ちよく、言うことない感じな最高な一日の始まりである。

メンタル、フィジカル共に気持ちよく始められる朝には、今日という一日が素晴らしいものになることを予感させるワクワク感がある。素晴らしいものになると思い込みさえすれば例え何が起ころうともそれは素晴らしいことだと捉えることができる心の余裕。

 

心と財布の中身には余裕が必要だ。人が穏やかに過ごすには、とにかく余裕というものが必要であることと、足るを知ることであると、経験から学んでいる。

金さえあれば、とか、金はなくとも、なんていう極端なのは無知であるとしか言いようがない。

 

朝のたこ焼きを作って売ってるおばちゃんの買った時の嬉しそうな顔を見ると、買ってよかったなと思える。それはただ単に物を手に入れる買い物という行為を超越した、あたかもなにか崇高なものに対するお布施のごとくにお金を払えたことにこちらが満足し、感謝するという、まことに素晴らしい一場面であったところから、今日のこの幸福感は端を発しているのである。

 

ポジティブに物事を見ていると、このように朝の他愛のない買い物一つからこういう幸せを汲み取ることができるということを、ひとつここに書いて見たかった。

 

それではここで一書


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暑くアツい夏が終わった


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秋の夜長というものは、こうして文章を書くのに持ってこいな環境だな、なんて思いながら久方ぶりにこのブログにやって来た。

あれほど毎日書いてたこのブログも、なんかの拍子で書かなくなると、それはまるでタバコを止めて数週間ほど経った時に感じるニコチン中毒からの目覚めのような感じで、全く書かなくても平気になってしまうから人間というものは面白い。

しかしブログは煙草と違って、一旦始めると、止めることが良しとはならない。むしろ、「なんだ、アイツ。結局続かなかったんじゃないか、駄目な奴め」とのレッテルをはられるかどうかは知らんけども、とにかく、続けなければ結果、成果は全くもって期待できない代物なのであるような気がしている。

毎日書くのはハッキリ言って義務的というか、強迫観念に追い込まれるような感じがして、どうもやりづらい。かといって、まがりなりにも数ヵ月続けて、半ば習慣のようになっていたものを、全くしないというのも、なんだか違和感を覚える。これに関しても、仏教でいう中道、儒教でいう中庸的な精神が功を奏するということで、書きたくなった時に書くというのが結局、自分の場合は良いスタンスであることが判明したので、まぁよかった。なんでも自分にしっくりと来るものを探すのはある程度の時間が必要なんだと改めて実感したような気分になった今日この頃。

 

話は全く変わるけども、この夏はテキヤで焼そばを作っていた。昔からの知り合いのテキヤのおっちゃんから、人手が足りないからということで、この無駄無し屋にオファーが来た。20年ほど前にかき氷は売ったことがあった。でもそれとは全然違って、焼そばは過酷な商いだった。なにしろね、夏の野外と焼けた鉄板という組合わせがね、もう暑いのなんのって。軽い気持ちで引き受けたのをまぁまぁ後悔しつつも、やると言ったからにはやらないと、どうにもならないので、汗水たらしながらそばを焼きまくった。

これが意外とね、やってみるとたしかに暑いんだけども、アツくもあってね。自分が作ったものに対して行列ができて、次から次へと飛ぶように売れゆく様は、一種の快感となってきて、結果的には暑く、アツい営みとなって今年の夏を順風満帆なものにしてくれたというオチなんだけども、やっぱりあれだね、隣でフランクフルトとか売ってたけども、焼そばのあの匂いには集客という面で到底敵わない感じだったね。

 

行列が一旦出来はじめると、それは祭りが終わるまで途切れないのよ。そうなると、大勢の人の目の前で作らないといけない状況になっちまう。これはね、もうライブだね。パフォーマンス。こんな不寛容なご時世だもんでね、下手なことはできないのよ。だからその緊張感はステージに上がってマイクを握るアーティストのそれと同じような感覚。

それすらも始めは「これはやりづれぇ」ってな感じだったんんだけども、慣れてくると、快感になるんだよなぁ、これが。なんか良かった、自分、こんな気質でってつくづく思ったよね。

まぁそんな感じで今年の夏はなかなか忙しく楽しんだということで、それが一段落した秋からはまたぼちぼち書いていくことにしようと思ってはいる。つまらん駄文をね。

 

 

フィリピーノとの一日

 

フィリピーノに我が地元の因島を案内した。

梅雨の晴れ間はあっさりとした暑さで島特有の潮風が心地よい。

 

まずこのフィリピーノ、日本語は難しいとみえてなかなかおぼつかない感じなので細かいやり取りは困難だと判断し、とりあえず古典的パフォーマンスの一つでもある「加トちゃんペッ!」を教えておいた。


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カトチャンペッ!を体得した図

 

なにやらわけはわかっていないが嬉しそうであったので何よりだ。

これさえ覚えておけば嫌われることはあるまいとの安堵感と、してやったり、ウフフというイタズラ心が満たされて大満足。

おそらく彼はこれからことあるごとにこのパフォーマンスを日本人相手に半ば得意気に披露してゆくことだろうと想像すると、そこには微笑ましい人種の壁を越えた友好的な未来が見えてくるというものである。

 

 

白滝山という地元じゃ有名な山に登ると頂上には鐘がある。

頂上から眼下に広がる多島美を堪能しながらの鐘突きはなかなか爽快なものがあるので二回突いておいた。

もちろんフィリピーノも喜んで突いていた。


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ごぉ~~ん、という鐘の音が辺り一面に響いていく情緒溢れるアトラクションの一つである。

 


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何回来ても飽きのこない豊かな自然がここにはある。

そんな自然のなかではジャパニーズもフィリピーノもない。言葉もさほど重要なものではなくなる。

ただただ黙ってその景色を視覚で堪能し、うまい空気を肺一杯に吸い込んで吐き出すだけで充分なのである。

 


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青い空、緑の大地、うまい空気、穏やかな海。

 

こんなシュチュエーションのなかではね、人間は本能的な喜びを感じるものでね、言葉はうまく伝わらなくともハッピーな気分にはなれるものなんだよね。

 

 

 

先日この島では海開きであったようだ。

今度は彼を海にでも連れていってみようかと思っている。


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善人はお馬鹿さん

 

この記事を投稿するかしないかは出来上がりを見て決めようと決めた。

 

blogにおいてくそ真面目なことを書いたとしてもそれはあまり意味のないことのように思ったりもするので、少し斜に構えてみたりおどけたパフォーマンスを披露してやろうかと思う。

 

ブラックジョークの類いだと思って目を通してもらえるとありがたい。誰かのためになんて押し付けがましい正当性を主張すること自体がすでに滑稽ですらあるように感じているもので、このような文章を書く時には、思いきり自分自身のストレス解消のために書くという方向に全力で舵を切ることを良しとする。

 

そうと決まれば話は早い。なにせ元からひねくれたところがあるというか、ひねくれてねじまがって途中で枯れてしまいそうになりながらもしぶとく生き残っているような人間だもんでね。特に悪ノリなんていうのは大の好物であり、もはやそれがアイデンティティであると言っても過言ではないすこぶる厄介な野郎だとの定評がある、ことに対して喜びを感じているという始末であったりもする。

 

時々自分が悪魔なんじゃないかと思うときがある。その反面、自分は天使なんじゃないかと錯覚してしまうような時もある。さて、どちらが本当の自分なのか?

 

答えはすでに出ている。どちらも本当の自分である。

 

世の中に清らかなだけの人間なんて存在しないと断言できる。清らかなお化粧を施した人間ならばチラホラ見る。そんなお化粧をお化粧と見ずに表面的なところだけで判断してるとね、例えばむちゃくちゃ可愛いじゃん!と思う女性とはじめて一晩を共にした翌朝に、横でムクッと起き上がってきたその彼女のスッピンの顔面を見てこう言ってはなんだが、少しショックを受けるような時の心境に近い現実をいつか思い知ることにもなりかねない。

 

だからね、若き日のそんな教訓を活かしてさ、いくら綺麗な女の人がいたとしてもね、「信じちゃ駄目だぞ?化けてるだけだ!」と、自分に言い聞かせときさえすれば、それがたとえピグモンのような素顔であったとしても狼狽えることもなければ、騙されたっ!なんて勝手な被害者意識を持たなくてすむじゃないかというわけだ。

 

要するに始めからどうせピグモンなんだ、と思っておけば後々女性に対して失礼な感情を持たないで済むということだ。「いや、ピグモンだと思うこと自体がそもそも失礼に当たるだろ」なんて主張はこの際無視してかまわないだろう。世の中には致し方なきこともあるもんだ。

 

ちなみにピグモンとはこういう感じの怪獣だ。


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ピグモンは、特撮テレビドラマ『ウルトラマン』をはじめとする「ウルトラシリーズ」に登場する架空の小型怪獣。別名は友好珍獣。英字表記はPIGMON。 『ウルトラマン』で初めて登場した人間に友好的な怪獣であり、後年ではマスコット的な扱いで登場することが多い。小学2年生程度の知能を持つとされる。 ウィキペディア 

 

 

おっと話がピグモンへと傾き始めたのでここらで進路を元に戻すとしよう。

なんだっけかな…そうそう、要するにね、人間には天使のような清らかな心も存在すれば、悪魔か鬼のような心も存在していて、それらが共存するのが人間の本質であって、どちらか一方だけというのは漫画の世界だけでの話であるということなんだ。

 

役者なんだよ、人間なんてものは皆。他人の心の中まで覗いてみることなんてできないし、覗く必要も権利もないしね。善人は少し悪人ぶったくらいのほうが難を逃れることができるだろうし、悪人は悪人で善人ぶることでなんとかこの社会において村八分にされることなく営めるということだと思うけどね、自分は。

 

自分は善人だ。だから世渡りにおいて損をしていると密かに思う人は悪人の化粧を施してみてはどうだろうか?善人と言われればなんだか馬鹿にされているような感じがするのは自分がひねくれているからだろうか?

 

いや、事実、善人は馬鹿である。世の中の現実というものをよく理解できていないお馬鹿さん。この国では儒教的道徳を美徳とする向きがあるようだがね、そんなのもケースバイケースくらいに思っておかないことには大変な間違いを起こしてしまうことになっちまうからね。

 

理想はね、理想として持っておくことに異論はないけどもね、理想だけでこの世の中を上手に歩いていけるほど甘いもんでもないんだよな。ケースバイケースでね、臨機応変にさ、鬼にも仏にもなれないと待っているのは残念な結果ということになっちゃうような気がしてならないよ、ひねくれ物の視点から見るとさ。

 

お馬鹿さんで結構、という人間には親しみが湧きはするけどあくまでも観賞用の人なんだよ。真剣勝負の場で手を組みたいとは思わない。だって生き残りたいからさ、それは理屈を越えた生物としての本能だよ。生き残るためには悪魔にだって鬼にだってなるよ。しかし、だからといって仮に自分のために死んでくれる人がいたとしてもそんなのは迷惑だ。自分が死ぬべき時には自分が死ねばいいわけで、誰かが代わりに死ぬことはない。余計なお世話を美談と捉えることができるほど自分はお花畑ではない。

 

なんていうかね、人間界といえども所詮は自然界の下部組織でしかないわけよ。その自然界は優しいだけでも綺麗なだけでもないわけじゃん?だから人間界においていくら綺麗なものだけを推奨しようとしたところでそれはちょっと無理があるんじゃないかって話なんだよね、ひねくれてるかな?

 

うん、そこそこ自分の言いたいことは表現できたような気がする。よし、この記事を投稿しよう。

blogはいいな。いい娯楽だよ。

 

ではまた。