本日をもって一日一本の記事投稿はおしまい
六月も今日で終わり。
と、いうことはつまり一年の半分が終わったということ。
そして個人的にはこのblogが半年間続いたということ。
まぁ余裕(笑)
今年の一月途中から書き始めて約半年間、ほぼ毎日書いてきた。
記事数はいつの間にか170を越えていた。
とりあえず数をこなそうという目論みは達成されたと言っていいだろう。
さて、この半年という節目を境に次のステップへと進もうと思う。
その次のステップとは何か
それはもちろん質である。
一日一本の記事を書くと決めて事実そうしてきた。
それはそれで大変勉強になったし面白かった。
ノリで乗り切るというパターンの継続はスリリングであった。
しかしそれは過程の楽しみであって本当の自分の目指すところではない。
いつまでも同じところにいることをヨシとはしない。
前へ上へと進み上っていきたい。
ゆけるところまで。
と、いうことで、せっかく築き上げた毎日更新という習慣を惜しげもなく捨てて、今度は日にちをかけてよく練った文章というものに挑戦していこうと思う。
それが吉と出るか凶と出るかは現時点ではわからないけれど、一つの道にこだわるつもりは更々ないので違うやり方にも挑戦してみようじゃないかと思うわけなのである。
元々数で勝負しようとは思っていなく、ただの一本でも素晴らしい作品ができれば、という思いのほうがつよく、それでもまずは経験値を増やすことが先決だと判断してこうしてここまで記事を増やして経験を積んできた。
ここまで来ると、そろそろ質にこだわっていくことも許されるタイミングだと今朝ふと思ったもので、思い立ったが吉日とばかりにこうして発表している次第である。
長いようであっという間だったこの半年。
千里の道も一歩からという言葉を肝に銘じてコツコツ焦らずにやってきた。
達成感はある。
しかし自分が求めている達成感とはちょっと違う。
量による達成感と質による達成感は別物だ。と自分は思っている。
それはどちらが上かということではない。
しいていうならば好みの問題であろう。
どちらも得られればそれが一番だけれども、自分のキャパを冷静に分析してみたところ、それは今のところ現実的な目標とはならないと結論づけた。
そうすると、量をとるか質をとるかの選択を迫られることになる。
自分は断然質に魅力を感じる類いの人間だ。
量は必要最小限で構わないというスタンス。
同じblogでも質にこだわるとなると、これまでとは全く違う書き方になってくることが予想される。
閃きとノリだけで書いてきたこれまでと違い、閃きを一度寝かせてよく練るという方法。
こういう変化は物書きのはしくれとなるべく脱皮のようなものだと感じている。
よく練った記事を書くという新たな土俵へ上がると決めたからには、よく練らなければならない。
よく練るにはどうしても時間が必要だ。
一本の記事を書くのにどれだけの時間がかかるのかはその都度違ってくるだろう。
三日で出来上がることもあれば一ヶ月かかることもあるかと思う。
しかしこれからは時間の縛りはないのだから、思う存分納得のいくまで練り上げることが可能となる。
練れば練るほどに味が出てくる文章を書けるかどうか。
挑戦者の心境で臨んでいこうと思っている。
挑戦というのはどうしてこんなにも心を踊らせるものなのだろうか…
ドンピシャのタイミングでリズムよく階段をかけ上がるぜ!
不定期投稿万歳!
ある意味苦行からの解放とも言える。
まぁまたそのうち!
とかげ
窓から外を眺めていたら上から降ってきた。
こりゃなんかな、トカゲかな、トカゲだよね。
こいつはいい暇潰しが降ってきた、と思って眺めていると、まばたきが可愛いではないか。
食べたらおいしいかなとも一瞬思ったがね、そこは思うだけに留めておくほうのがベターな感じがしたので気持ちを切り替えて奴を食材として見ることをやめた。
しかしこいつ、なかなか動かんね。
動かざること山の如しの境地へと達観しているのではないかとさえ思わざるを得ないほどに。
残念なことにこの無駄無し屋の好奇心には持続力というものはない。
五分ほど眺めていたけれどもね、あまりに動かないもんだから飽きてきちゃってね、よせばいいのにつついてみたわけよ。
そしたらね…
逃げられちゃったよ。
ビックリしたんかな、たぶんそうだろうな。
まぁトカゲにはトカゲのスタンスというものがあるんだろうね。
俺に触れるな!的な。
でも身の危険を感じた逃げ方、と、いうよりかは、めんどくせぇな、よっこらしょといった感じの去っていきかただったな。
めんどくさかったんだろうね、はいはいごめんごめん。
トカゲに去っていかれた後の自分の心境たるやそれはそれは清々しいものであった。
なんだよアイツ、なんて思っちゃいない。
また降って来るかもしれない。
そしたらちょっとの間眺めてまたつついてみるつもり。
野良猫なんかそうしてるうちになついてくるからな。
トカゲがなつくなんてことがあるのかないのか知らんけどもね。
名前はつけてやった。一方的に。
たけし
雄か雌かもわからんが、とりあえず、たけし。
平仮名では感じがでないな。
猛
これでいこう。
猛り狂うトカゲになって欲しいとの想いを込めての命名だ。
自然界は厳しい。
野良猫や野良犬に食われちまうことだってあるだろう。
グッドラック猛。
また会おう。
因島発のウエアブランド「west」の紹介
なんか暑い。
急に梅雨らしい蒸し暑さがやって来て驚いてみようかと思っている。
我が部屋にはエアコンなどという甘えたものは設置されていないという事実は、他人に熱中症の心配をさせてしまうほどのものであるが、当の本人はその不快感さえも風情として前向きに捉えているのだからどうしようもない。
暑い
ので涼しく過ごす為に自分達でTシャツを作った。
仲間は服をデザインして売る仕事をしている。
ブランド名は「west」
筆でまずこの無駄無し屋が文字を書く。
いわゆる友情出演的なね。
それを彼がTシャツにする。
いいじゃん。
彼はそれを売って生計を立てる。
今はまだ始めて一年のひよっこブランドなんだけど、これから色々な可能性を秘めている楽しみなブランドでもある。
因島という瀬戸内海の島の一つから発信してゆくこのwestというブランドが、アパレル業界でブイブイいわしてくれることを心から願ってみるのも一つの手だ。
来月にはこれまた仲間の、今、東京方面では開運画家と騒がれ始めている「RINBEN」がデザインしたTシャツをドロップするつもりらしい。
http://rinben.com/ (RINBENが如何なる画家なのか知りたい方はこちらをどうぞ)
ちなみにTシャツを持ってくれているのは因島出身のアーティストのポルノグラフィティのアキヒトさん。ありがとうございます。
要チェック!!
from因島to全世界の老若男女!
この夏に違いを見せるには「west」のTシャツがうってつけだと大きく出てみるけどもこれはただのハッタリではない。
westにはこちらからね。
支離滅裂
朝から雨。
やっとこさ梅雨の到来か?
雨音が心地良い。
なんとなく、雨の日は読み書きに適しているような感じがする。
でもそんなことを書いちゃうといつもよりも良い記事を書かなくちゃ、なんてプレッシャーがかかってきちゃいそうなので早速前言撤回。
渾身の記事というものを書いてみたいが故にこうして毎日チャレンジしているのだけれども、なかなかどうして納得のいくものなんてそうは書けるもんじゃないことはここまで半年近く書いてきて痛感しているね。
何を以てして納得とするのかというところも漠然としているからね。
でもまぁ続いているということに対しては、順調に記事数が増えていっていることに対しては、小さな納得があることは確かであるな。
突き詰める、ということに終わりはないね。
まるで宇宙のようにね。
進んでも進んでも突き当たらない。
これはすごく魅力的なことだよ。
なにせ底が見えた途端に興味が失せてしまう厄介なタチであるもんでね。
できれば死ぬまでこのblogも底を自分に見せないで欲しいと思ってる。
しかしそういう心配は無用のことのように思ってもいる。
ものを書くという行為に底があるとしたら、それは自分自身の底であって、自らを深めてゆきさえしてれば、それは深さ無制限の世界となると睨んでいる。
言葉を深めていくということは、己を深めてゆくということじゃけえのぉ。
文章で方言を使うの面白い(笑)
たしかボクシングの広島県出身の竹原がblogの最後に
じゃあの
なんて方言を決めゼリフにしてちょっと面白かった記憶があるのよ。
今はどうか知らんけどね、2、30年前なんかはね、自分が住んでた土生という漁師町ではさ、小学生同士でもちょっと悪い冗談でも言おうものなら
「われ、ぶち殺すど」
なんて笑顔で言うてたけどね。
そんな言語が通常運転だった環境で育っちゃうと、口が悪くなるのも当たり前なことで、今でもその名残が自分にもあることに、あぁ、やっぱり自分は因島の土生の人間なんだ、という安心感を得るのである。
時代は常に流れ変わっていくので、今の若い人達は土生でもそんな感じではないのかもしれないけどね。
と、一応土生の名誉の為にもそう書いとくべきであろう。
もしかしたら、その昔も自分達の周囲だけのことだった可能性もあるしね。
はじめて入れ墨を突いたのは17の頃だったけども、そんなのも別に珍しいことでもなかったような環境だったからね。
様子のおかしい先輩やおじさんなんかがその辺にうようよしてたよ(笑)
異常だね、今から思うとね。
こうして自分の地元の過去をネタにして書いてみることができるのも、このblogの醍醐味として楽しむことにしてるよ。
ここまで書いてきて、もはや流れというものはこの文章には存在していないんじゃないか、ということに気づき始めている自分がいる。
支離滅裂。
いいね。嫌いじゃないよ、そんな感じ。
変わり者と言われてる奴の思想
本日薄曇りにて涼しい瀬戸内海。
午後からは雨のようだ。
やっとこさ梅雨の到来かいな。
全くのアウトドア派であった二年前までとはうってかわって現在はインドア派にシフトチェンジしてゆき、こうして柄にもないblogなんかを書いてみたり、ゆっくりと物思いに耽ったりと悠々自適にあまり社会とは関わり合わずに生きている。
愉快だ。
社会に未練は全くないし、そもそもすでに遠い昔に魅力を感じなくなっていたものだから、どうにかして自分の世界の中で暮らしていってやろうと目論むこと10年。
念願叶って、今はそれは周囲の人達からは、「アイツは何をして生きているのか?」 などという疑問を持たれているであろうが、そんな退屈な疑問を持つパンピーなんかよりもよっぽど充実した幸福な人生を送っているという事実が実に愉快なことなんだ。
変人、とか、変わり者、という形容は自分にとっては誉め言葉。
しかし、少数派、マイノリティが常に変人であるとは限らず、こちらからしたら、自称常識人意識高い系の、気づいていないことに気づいていない多数派の方々のほうがよっぽど変人、というか憐れに見えてしまうのは偽らざる本音。
まぁいいのよ。
こんなことを言うと食って掛かってくる単細胞といちいち対立するつもりは基本的にはないんだからどうでも。
かかる火の粉は振り払うし、対岸の火事にまで興味は示さない。
情をかけるべき時はかけるし、そうじゃない時には非情にいく。
昨日の味方が今日は敵なんてことは当たり前。
必要以上の狩りはしないが、必要な時には躊躇なく狩る。
あくまでも自然界の法則に基づいて行動する。
下手な情けは優しさではなく、無理解であり弱さでもある。
なんにしたってこの世の中で、というかこの地球上の人間界の更に上にある自然界において生き残るための最重要要素といえば「つよさ」である。
まずはつよさありき。
つよいものが正義とまでは言えないが、つよいものがまかり通るとは言える。
優しさだけでは越えられない壁というものがある。
その壁を越えるには非情になりきる勇気が必要だ。
善人が弱いのは優しさしか持てないからだ。
悪人がつよいのは非情になりきれるからだ。
本当に素晴らしい人間というのは拾うこともできれば、捨てることもできる人。
生かすこともできれば殺すこともできる人。
善人と言われたいがゆえの弱者になどなりたくはない。
悪人と言われようが強者でなくてはならない。
そもそも悪人、善人の定義にも意識レベルによって随分と差違が出る。
だから色々な意識レベルが共存するこの人間界において、ただ一つの絶対の悪とか善というものはないと言ってもいいくらいのものだ。
他人のことを安易に
「あの人は善人だ」とか「アイツは悪人だ」
などと判断してはならないね。
判断というのは全てが見えてからはじめてすべきこと。
見えてない部分があると感じたならば
「判らない」
というのがベターであろう。
まずはつよくなるべし!
話はそれからでも遅くはない。
そして清濁併呑
これを肝に銘じておかなければならない。
自慢話大会
昨日は夜に事務所で友人達が集まった。
内訳は、30代が二人、40代が二人、50代が一人、80代が一人。
職種でいうと、町工場の経営、服屋、フィリピンからの出稼ぎ、絵描き、化粧品屋という、年齢、業種共にバリエーションに富んだ面子。
まぁ、こういう面子だとね、80代のお婆ちゃんを軸にカオスな状況となっていくんだけども、なかなかこういう雰囲気の会合もないわけで、それはそれで楽しめるわけなのである。
仲間が集まって雑談。
これは面白い。
色んな年代、職種の人間の色んな価値観が入り乱れての、時に自慢話、時に自虐ネタ、そして時に悪ノリもありながら、生意気にもシリアスな展開にだって発展していくこともある。
個人的に一番愉快なのは、それぞれの自慢話。
自慢話っていうとさ、なんだか良いイメージがないような感じがするけれどもね、ウチの会合ではむしろどれだけ自慢話ができるかという競い合いの中に盛り上りのきっかけが潜んでいてね、そんなそれぞれが心行くまで自慢話を披露できるっていう環境は本当に平和だと思うんだよね。
他人の自慢話に嫉妬するような小物は一緒にいてもつまらんのでいらん。
80代のお婆ちゃんも一生懸命に自慢話を披露してた(笑)
生存継続年数が長いと、なにかと経験は豊富なんだろう。
微笑ましいかぎり。
絵描きは我が娘の自分に対する愛情自慢。
いいねいいね、そういうの。
自分の子供に尊敬される親なんてのは今じゃもはや稀少価値がつくのではないか、とか思うのである。
フィリピン出稼ぎは二時間残業あとなので疲れて居眠り。
そういうのもアリ。
服屋は少し控えめな性格でしゃべくる感じではないけれど、論より証拠とばかりに自分の作った新作のTシャツを披露。
絵描きに頼んでデザインしてもらったそのTシャツは、ドクロの中に目一杯の花柄を散りばめたユニークなものだったが、写真を撮り忘れてここに載せることができないのはすこぶる無念というほかないよ。
町工場を経営する幼馴染みは時に頓珍漢なことをいう男で、思わず「こんなんで大丈夫なんかいな?」とか思わせるスリリングな男なんだけども、とにかくなんていうか、野性的なところがあってその行動力たるやさすがのこの無駄無し屋も驚かざるを得ないモンスターだ。
そんなアクもクセも強すぎる面子での二時間に渡る雑談は、あっという間に過ぎていく。
時を忘れて前向きな自慢話を口角泡を飛ばしながら熱弁してくその様を眺めていると、浮き世のしがらみなんて何処吹く風のように思えてくるのは、けっして悪いことではあるまい。
それぞれ忙しい身であるので、そうそう集まる機会はないのだけれど、時には心のサウナのような感覚でこういう会合を開いていきたいね。
次回の会合では誰がどのような自慢話を披露してくれるのか、今から楽しみである。
単刀直入にね
さぁて、今日も書いていきますか。
ってまだなにも書くこと決まってないのはもういつものことだからなんとかなる。
スリリングだよ、いつもこのblogの時間は。
スリルというものをこよなく愛する人間であるのだけれど、まさか文章を書くのにもスリルを味わえるなんて嬉しい誤算だよ。
一文の閃きなんていうと些か大袈裟かもしれないけどね、まぁでもとにかく何かが思い浮かばないことには自分のようなスタイルのblogは成り立たないからね。
想像力と感受性と思想のカクテル。
あとこれに図々しさを隠し味に加えると完璧。
自己表現の場、と、このblogを捉えているからには、ズケズケと言いたいことを人目をはばかることなく書いてこそだと思ってるからね、時には読者の気分を損ねるようなことを書いちゃうかもしれないけども、そんなのお構い無しにやってくよ。
そういうことなんで、今日はシンプルに決めようと思う。
法律や道徳と本質はイコールではないっ!!
どうだっ!こんちくしょう(照)
読むとイラつく人がいるかもしれないね
他人の幸不幸には無頓着である。
別に人格者になりたいとは思っていない。
ただ、実力者ではありたいとは思っている。
そういった意味でも、このblogの世界でしぶとく生き残ってやろうという気持ちはつよい。
生き残ったものが勝者であるという考え方。
他人のblogも読む。
自分よりも後からこの世界に入ってきて、あっという間に自分を越える読者やPVを獲得していくBloggerは多いけれど、そういう人達は消えてゆくのも自分より先であることが多い。
なんだろうね、嵐のような人達だねって思うよ。
色々とうまくはあるんだろうね。
そこんところは認めざるを得ないわけだがね、でもやっぱり根性ねえなぁコイツら、とは思うわな。
でも根性だけのただのイケイケも良くないよ?
パッと人を集めるのはうまいのに、せっかく200や300の読者をあっという間に獲得しているのに、段々と尻窄みになっていくのはどういうことなんだろうね。
自分の見解では、単純に、中身がなかったということになるんだよね。
中身がないのに大勢の人に見られる環境だけ整えてしまった感。
段々と自分の首が絞められていくような感じがあるんじゃないかな、とか思うんだよね。
まぁ勘違いかもしれないよ?
でもいいじゃん、ここは自分のblogだからさ。
自由な解釈してくよ勝手に。
中にはblog開設当初からの姿勢と勢いを保っているスゴいな、と思わされる書き手もいる。
まぁ一割くらいかな、自分の知る限りという狭い範囲内ではね。
こういう人達はきっちりと金も稼げるようになるのも時間の問題なんだろうな、と、想像するのが難しくない。
引き続き購読してゆき、その結果をこの目で確認したいと思う。
さて、他人のことはともかく、自分はどうなんだろう。
うん、はっきり言って生き残るだろうな。
なにせしぶといからね。
blogは、というか、何かを成し遂げるにはこのしぶとさがものをいうことを知っているからね、我々クラスになってくると(笑)
技術、戦略なんてものはいらない、とまでは言わないが、しぶとさと比べると、その価値は高くはないというふうに考えている。
しぶとさとは辛抱であり、忍耐であり、根性であると言えるよ。
根性論を馬鹿にする輩がいるけどね、根性無しに一体何ができて何が書けるっていうんだよ、このアホが、てな位に思っているんだよ。
技術や戦略は、根性という幹があってこそ活きる枝みたいなもんだ。
しかも技術は長くやってる内に自然と身についてくるしな。
まずは根性でしぶとく続けてその中から生まれてくる技術を持って、戦略を練るというスタイルで自分はいくつもり。
とにもかくにも、たとえ地面スレスレの低空飛行であろうとも、墜落しないこと。
これが絶対!墜落しちまったらそこで終わり…じゃない人も中にはいるが、そんなのは例外。
目下低空飛行中のこの無駄無し屋ではあるがね、狙ってるよ、虎視眈々と。
上昇気流とコミットする機会をね。
そのタイミングがやってくるまでは低空飛行で堪え忍ぶ、しぶとく。
何がどう転ぶか分からないのがこの世の中。
実行してさえいれば、可能性はゼロにはならない。
犬も歩けば棒に当たるし、下手な鉄砲も数打ちゃ当たる式なね。
こういう心境の領域において作戦なんてものはもはやこざかしい。
一心不乱、それでよし。
やることやりながら時を待つ、これ成功の法則な。
こういう主張が是か否かは時を待つしかないけどね。
はぁ~、どうしてこんなに嫌われるかもしれない主張って気持ちがいいんだろうなぁ。
誰か良い記事だねって誉めてくれねぇかなぁ。
まぁ40過ぎのおっさんのおねだりなんてなんの効力もないんだろうけどなっ!
欲八分目の効果
腹八分目、ならぬ欲八分目というのが広まればいいなと思っている。
人間には百八つの煩悩があると仏教では教えているらしい。
何と何を数えて百八つとするのかは知らないが、とにかく人間は欲が多いということを言いたいのであろう。
そんな欲望達の全て取り除くことを悟りというのならば、悟りには何の魅力も現実味もあったもんじゃない。
と、いうか欲望の全くない人間というのはもはや廃人でしかないだろう。
滑稽な話だ。
しかし、そうはいっても欲望というものは百八つどころか無限に広がる宇宙のように際限がないのではないかとさえ思わせる恐ろしくもあり、頼もしくもある存在であって、これを何の自制もなしに野放しにしておくことは、地球上の食物連鎖の頂点に君臨する者としての責任を放棄しているのではないかと思うわけなのである。
世界人口は今や70億人を越えているらしい。
単純な計算をしてみると、
人一人に煩悩が108×70億。
これはもう、物凄い数になってしまって電卓では数字が出せないくらいだ。
しかし全ての人が欲八分目、つまり20パーセント欲をなくせばどうなるか。
108の20%は21・6である。
なので、
21・6×7000000000=151200000000
の、煩悩がなくなるという計算だ。
一人が煩悩の二割を捨てても大したことはないが、70億人全員が二割の煩悩を捨てるとその数は1512億もの煩悩を捨てることになる。
これは凄まじい数である。
これだけの煩悩がなくなると世の中はかなり平和になり、自然環境的にもかなり良くなっていくであろうと思われる。
それぞれが、たった二割、欲八分目に押さえるという立派な心がけを実践していくだけで地球は救われるのかもしれないな。
でも無理なんだろうなぁ。
皆、いい人ぶってはいるけれど、結局は自分さえ良ければ根性を懐刀に立ち回っている欲の権化なんだもんなぁ…やれやれ。
多少の自己犠牲の精神ないと人間とは言えないよね。
陰徳‼
無理のない、は最善であって理想的。しかしこの世の中は…
朝の九時からblogを書き始めるという決まりが自然と出来上がってきた。
散歩を終えて朝食を済ませ、一服してから書き始めるという流れ。
自然とベストなところに落ち着いてゆくもんだと思った。
自然と、というのがなんだかんだいってもベストだろう、と自分は思っていて、このblogの継続も自然な感じで成り立っているから無理を感じない。
無理をするということを全否定することはできないし、場合によっては多少の無理も必要なことがあるように思ってはいても、基本的には無理のないのが一番である。
無理は続くと必ず悪い方向へと向かう。
かといって、無理をしないと打開できない局面というのがあるのも事実。
判断力が必要だね、なんでも。
なんだか最近は辛抱とか忍耐といった言葉が死語になってきてるみたいだからね、それはそれで頷けるところもあるんだけれど、辛抱や忍耐を養わないがゆえの事件というのも頻発してるような気がしないでもないね。
無理はずっとはいけないけれど、少しは辛抱も必要だよね。
辛抱してると無理が無理じゃなくなっちゃうこともあるしね。
このblogにしたって、たしかに楽しく無理なくやってはいるけれど、常に楽しいだけということでもないし、自分のイメージするところに辿り着くのには、辛抱も多少の無理も辞さない覚悟は必要だと思ってる。
イメージでいうとね、ドラゴンボールの悟空が使う「界王拳」的なね。
一瞬だけは無理をしてでもパワーを上げることでしかぶち破れない壁というのは時々現れるんだよね。
生きてると色々な壁にぶち当たるからさ。
そんな場面で無理はしないなんて悠長なことを言ってたら、壁は壁のまま、自分の前に立ちはだかったまま、そこで立ち尽くすか、引き返すかしかないわけだから。
瞬間の無理を押してでも突破すべき壁が現れた時には、その無理は無理ではなくて、ごく自然な流れだと捉えることに自分は賛成している。
そんな考えは、あくまでも前に進みたいという願望がある人に有効なものであって、今の場所に満足している人には無効なものであるとも言える。
どんな考えにでも、全くの間違いと言えるものはないわけだから、どう考えようと自由といえば自由なんだろうけども、好みという横の問題か、次元という縦の問題かというのはよく吟味しないといけないような気はする。
無理はいけないことだという考えは本当だし、無理も時には必要だという考えも、また本当だろうね。
どっちが正しいか、というのはその時々、状況で変わるものであるし、どっちが正しいかなんてのはそもそもないんだというのも正しいと言える。
まぁ要するに、無理はないのが最善だけれど、それは理想であって、現実には最善だけを選択することは至難の業であり、致し方なき選択をしなければならない時もあるのがこの世の中である、ということを言いたいわけだ。
白か黒かで全てが割り切れるのなら、人生なんて簡単なものなんだろうけどね…